主役争奪

 この時間の田園都市線直通の半蔵門線車内は超満員で、一日の疲れを溜めた匂いが充満している。蒸された空間に気持ち悪くなる。顔も知らぬが同じ時間に居合わせた彼らは彼らの人生を生きて、自分自身が人生の主役だと思って生きている。

 もちろん物語のように俯瞰する視点はなく、自我という愚かしいものが働いているために人々はそう思う。昔流行った曲では、ナンバーワンじゃなくてオンリーワンになろうと歌っていたが、ナンバーワンになることよりオンリーワンになることは非常に難しい。会社ではナンバーワンになったやつがやはり主役だ。俺はナンバーワンじゃなくても俺のしている仕事はオンリーワンだ、なんて言えるやつがどこにいる。もともと特別だなんて全く思えない。世の中は不平等なもの、そう思って生きていけばわりかし気持ちを鎮める事ができる。

 奇跡的に二子玉川駅で前の座席の乗客が降りて座る事ができた。携帯を取り出してみると妻から「今日の晩御飯はおでん」と無味無臭のLINEの通知がきていた。妻にしてみれば俺はオンリーワンの存在か、いや違う。誰だってよかったはずだ。俺と出会って結婚してなければ、今隣に座っているハゲ散らかしたオヤジと結婚していたかもしれない。人生なんてそんなもんだ。
――次は、溝口。大井町線、JR南武線はお乗り換えです――
 
 


 暑い。蒸し暑いなんてもんじゃない。どうやら少しうとうとしていたようだ。眠ると体温は上昇し汗をかく。そろそろ最寄りに着いたのではないだろうか。いや、この暑さは違う。

 俺は温かいお湯の中に浸かっていた。家に着くまでの記憶も無くしていたのか、どうやらいよいよ仕事の疲れが限界にきているらしい。まどろんだ目を開けると、目の前には今まで見たことのない光景が広がっていた。いや、正確には見たことはある。しかしこんな巨大なものは見た事がない。俺の目の前には、大きな三角形にツヤとハリのある灰色のボディ、そしてそばかすのような黒いしみ。間違いなく俺はこいつを知っている。
 こんにゃくだ。しかしこんな巨大なこんにゃくは見た事がなかった。どうやら疲れているらしい。しかし妻のやつも気でも狂ったのか、風呂場にこんにゃくを入れるなんて。湯船から手を出そうとすると上手くうごかせなかった。それどころか、体が全くいうことを聞かない。動かせるのは目と口だけのようだ。しばらくするとお湯がより一層熱くなっていく。熱い、熱すぎる。
「やれやれ、はんぺんのやつあんだけ熱がっちゃって。大丈夫、溶けないって」
 どこからか声がしたと思うと、少し薄黄身がかった白くて円形のでかいやつが声をあげた。口調からして態度がでかいことは明らかだった。少し透けているようでその体は強固である事が見てとれる。
 こいつは間違いなく大根だった。自分をおでんの主役と思っている堅物だった。やけに他の具に絡んでいる。ようやく自分の置かれている状況を理解できた。俺は白くて柔らかいはんぺんだった。そしてここはおでんの鍋の中。ようやく鼻が効いてきて、昆布の出汁がよく香ってきやがる。くそ、腹がすいてきちまう。

 俺ははんぺんだから、プニプニに詰まっているようで意外と中はすかすかだ。他のやつより優れているところといえば、よく浮く。周りがよく見える。大根は他の具の上に乗っていばりちらしている。
 煮卵はそれを物怖じせず、堂々と丸々と浮いている。しかし、肌のハリとツヤには気を使っていて、他の具から距離を保っている。誰かが近づくと、「離れて、崩れちゃうでしょ」と叫び出す。それに大根は「うるせえな、お前はおでんで偉そうにしてんじゃねえよ。どこにだって入ってるユーティリティープレイヤーだからって」とヤジを入れる。貶しているのか褒めているのかわからない。煮卵はなんとも思わず無視している。
 こんにゃくはプルンプルンと、あらゆるものをはじき返している。何者も寄せ付けず、そして何も物申さない。
 しらたきの兄弟は大根を怯えて固まっている。一本一本はひ弱そうだが、結束力は強い。大根は「お前ら束になったって、俺には勝てないんだっての。一本一本引き剥がしたろか」と怒声を浴びせると、よりぎゅっと強く結ばれる。
 がんもは穏やかにみんなの仲をとりもつ。「大根はん、そない怒鳴り散らさなくてもみんなで仲ようしましょうや。しらたきはん、大根はんはもう少ししたら大人しくなるから、もう少しの辛抱やで」
 餅巾着はそんながんもの声に乗せて、「固い大根なんて美味しくないですもんねえ。早く柔らかくなりなさいって」と揚げ足をとる。大根も負けじと「お前だってまだ中の餅柔らかくないんだろ、アホが」と返す。

 みんながみんな、主役を欲しがっているように見えた。おでんは争いなんだ。家庭用のおでんはいい、みんな食べてもらえる。だが、コンビニのおでんはどうだ。あそこは戦場だ。売れ残ったおでんは何ヶ月も汁に浸かり捨てられていく。自分が選ばれようと、拾ってもらおうと必死なのである。きっと自分がおたまに救われた時の感動は一塩なのだろう。
 けど、自分がおでんを食べる時どう思う。もしこの中で一つしか食べられないとしたら?最初に口にするのは?考えても答えは出なかった。どれだけ考えても、それぞれに良さがあって、それぞれ皆美味しいということだった。
 おでんは美味しい。大根も、煮卵も、こんにゃくもはんぺんも。がんもやしらたき、餅巾着なんて最高だ。ばくだんなんかが入っている日にゃ有頂天。なんでかわからないが、ソーセージも絶妙な味わいを出してくる。
 ああ、おでんが食べたい。自分がおでんじゃなくて、おでんを純米大吟醸の日本酒を添えて食べたい。いや、一杯目はビールだろうか。そうだ、まずはこの場を俺が抑えなければ。皆んな特別なオンリーワンなんだって。
 出汁はすでに沸騰してから相当の時間が経っていた。どいつもこいつもクタクタに出汁を吸って、大根も煮卵もさらに色づいていた。くそ、うまそうだ。
「みんな、聞いてくれ。誰が偉いかなんか争っても無駄なんだ。俺はなぜかはんぺんだが、おでんの具はみんながいなきゃダメなんだ。大根はもちろん煮卵もこんにゃくも、がんもやしらたき、そしてはんぺんもいなくちゃダメなんだ。みんながいるから、一つの美味しいおでんが出来上がるんだ、なあ、そうだろ」
 ああ、そうか、社会の組織とはそういうものだ。俺は凝り固まった考え方をしていた。煮詰められてどうやら頭も柔らかくなったようだ。俺が声を上げた時、すでにみんな同じ考えだった。大根もずいぶん柔らかくなって、しらたきに「今まで悪かった」と声をかけている。今俺はおでん平和友好条約を宣言したのだ。この瞬間、自分が主役になれた気がした。俺がおでん界の坂本龍馬だと思いすらした。
 その思い上がりを断ち切るように、皆が軽蔑の目を向ける。皆の顔には、今みんなが主役だって言っていただろう、何を勘違いしているんだお前は、と書いてあるようだった。頭が痛くなってきた。
 
 
――次は、中央林間、終点です。小田急江ノ島線はお乗り換えです――
 身体中が汗びっしょりだった。やはり、人は調子にのると良くない。もう少し謙遜して生きていこう。家に着くと熱々のおでんと缶ビールが俺を待っていた。大根から先に口にしてみる。一日目の大根はまだ煮えきっておらず、固かった。

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