規則の海

規則の海

 身体が温まると目の前にいるわたしが見えなかった。多分見えるはずの私は毛をむしられた鶏皮のような肌の色をしていて規則性なくむやみやたらに押された小さい黒子が並んでいる。赤い絵の具の筆を水につけた時くらいにほんのりと火照って水滴がいくつかついているであろう顔はきっとそそり勃たせるような艶かしさを孕んでいると私は思う。


 今日は一週間ほど前の春の陽気は何処へやらと天気予報を伝える勘所の悪そうなキャスターが傘をさしながらそれはいかにも寒そうだと言わんばかりの薄手のワンピースに短尺のダウンジャケットを羽織り、寒いですと身を縮こまらせて当たり前のことをいかにも当たり前のように話すそぶりがもしかしたら男心をくすぐるのかもなと半分思いながら半分は嫌気がさして、とりあえず傘を持って行こうと思ってテレビを消して外に出た。
 駅まで歩き、電車に乗って、会社に着く。いつも通りすぎて頭に残ることは何もない。会社についてデスクに置かれたパソコンの電源をつける。液晶の画面も同じように何も頭に残るような情報を持ってはいなかった。そこに機械的に打ち込む情報はデータの中で記憶されていても、生きているものの記憶にはきっと残ってはいない。覚えておく必要もなくて何も感じないから誰もがデータの中に保存して記憶を引っ張り出してこないとダメなんだ。息を吐いて生きているのを確かめるように液晶から目を背けて後ろの窓を眺める。外では冷たい冬の雨、内では温められた汗や皮脂の匂いが充満した人の熱気と空気の悪い暖房とに挟まれ、会社の窓ガラスは結露で曇っている。水蒸気に囲まれた室内に私は溺れそうになってしまう。夏の早朝に自治体で誰か当番でも決まっていたのかカセットデッキを持って来てはおきまりのリズムに合わせて踊る滑稽な体操と似たように私は日々規則的な仕事を、他の人も誰がやっても同じような仕事を8時間、組織として行なっている場所。そんな会社に嫌気もさして来たもんだから今日は酒でも飲もうかと決めた。

 我を忘れて、なんて誰に話すでもなく自分の中で取り決めのように考えて、そうやって自分自身で我を忘れようと思っている時点で忘れられないのでは、なんて一人で受け答えをしながら、バーのカウンターで飲んでいた。センター街にありながら落ち着きがあって小粋なジャズを流す場所だった。スプモーニを頼み、お通しのクラッカーとレーズンバターを嗜みながら、曲名はわからないけれど各駅停車みたいに落ち着いたリズムを刻む優しいドラムとアソコに少し響く心地いい低音のコントラバスを聞いて、少し前の私だったらなに大人ぶってんのと言ってしまうくらい、自分に酔っていたかもしれない。誰と話す訳でもないから手持ち無沙汰で液晶画面に手を触れた。
 小さい液晶に流れる友人たちの日常は15秒の短尺映像の連なりで、聞いてもいないし見たいとも言っていなくても彼らの生きている日々を映し出してくれる。彼らは規則やありふれた物の中に溺れないように、広大な海をせわしなく泳いでいるようだった。素早く泳ぐ彼らを見失わないように、彼らと同じく溺れないようにと、私も何かを探して、自分が溺れていないことを周りに見せつけるように日々を映していたこともあった。映して、反応を期待して、反応があったりなかったり。規則の海から抜け出す為に泳いでいるのに、その先には渇きしかなく、渇きながら泳ぎ続けることに疲れ私は溺れてしまった。私とは別で、彼らは溺れない泳ぎ方をする人を模倣して、同じ泳ぎ方になっていた。規則の海から抜け出す為に自分を探して、いつしか自分を見失っていく。私はわざとらしいくらいに小洒落たジャズをバックグラウンドに、薄暗い店内でスポットライトを浴びたグラスに半分程度入った薄い朱色のドリンクを映し、暇、渋谷で飲める人、と書き込んで投稿していた。

 反応してくれたのは前に関係のあった男だった。まあどうせ彼くらいからは反応があるだろうと安易に期待していたが、その期待を裏切らない程度にちょうどよくどうでもよくて、どんな女でも抱ければいいのか私だからなのか30分後くらいには店に来て、ちょうど俺も近くで飲んでたところだったんだよ、あ、そういえば久しぶりだねいつぶりだっけか、とりあえず乾杯。とせわしなく注文を頼んではグラスを合わせ一気に半分ほど小グラスのビールを喉に注ぎ込んだ。こちらは閉口して、彼の停滞しないお喋りとたまに遮るように力強く高く鳴り響くサックスの音色を交互に聞き取っていると、まだ彼の顔も十分に判別してもいないけれど、いつの間にか気づいたら彼の部屋に来ていた。前にも二三度来ていたがその道のりもさっきまで歩いてきていたのに覚えていない。ショットグラスを何度か傾けていたがその酒がなんだったかもわからず、吐き気はないが頭が適度に揺れてはいるものの、床が壁で壁が床なのか、滝は落ちて川は流れているが川が落ちて滝が流れることはないのか、みたいに変なことをあえて口走っている自分に気が付いてはいた。床にもたれかかっていたのか壁に寝そべったのかは覚えていないが男が覆いかぶさってきて口の臭いも舌もお喋りなんだなと思った。とりあえずお風呂に入るから、といって無理やり押しのけて洗面所のドアを閉める。うわやっぱり寒いなと言いながら乱暴に服を脱ぎ捨てて男の一人暮らしにしては広めの浴室に入る。縦長の大きな一枚鏡を見つめ、ああちゃんと毛剃ってくればよかったと頭の中で考えている間も無く、寒い寒いと繰り返しなかなかお湯を出さないシャワーヘッドに文句を言って、床に跳ね返る透明な水しぶきの冷たさで我に返った。
 透明な水が白く細い線を描くようになったと思ったら、床からはうっすらと白く見える水蒸気が浴室を包んでいった。なで肩から水は滴り落ち、凝り固まった背中と腰を温め、次に大きすぎず自分でもちょうどいい傾斜だなと思う胸にシャワーを当てていく。細く早く、それでいて温かい刺激が全身に柔らかな熱を巡らせる。水圧を弱め優しく撫でるようにお湯を身体に這わす。一枚鏡は結露で曇っていた。


 シャワーヘッドからでる弱い圧のお湯を浴びながら、曇った鏡の中に見えない自分を探すように頭に埋もれた今日の記憶を掘り出した。思い出すためなのか何故か私は左腕から黒子を数えた。一部お酒が回って覚えていないこともあったが、ああ私は彼と今日寝るんだな、それでもって明日もまた会社に行ってなんも代わり映えしない毎日に溺れていくんだろうな、そう思った時にはすでに胸と腹をなぞり、右腕の黒子を数え終えていた。顔を数えようと鏡を見ると、目の前にいる私は結露に覆われて見ることはできない。我を忘れる、お酒を飲んで誰かと寝る。ありふれたものから逃げるように、規則の海に溺れないように、その先には自分を見失った自分がいるだけで、そもそも忘れる以前に「我」を見ることもできていないのかもしれない。
 鏡にやわらかいお湯をかけた。白く鏡を覆うオブラートがゆっくりと溶け、流れ落ちていく水で私の姿は歪んでいる。少しの間を置いてくっきりと見えたガラスの中には、艶めかしくはなかったが思い描く自分の姿が映っていた。ああでも、私が鏡で見ている唇の右の黒子は他の人から見たら左に見えるのか、と思った。

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