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 空は曖昧だ。
 晴れた日はどこまでも青で、視覚で捉えることのできるくっきりとしたオブジェクトが存在しない。白い雲は確立された固体ではなく、纏まり、そして離れて貌を形成していく。陽の一筋の光に目がやられて、光は複数に伸びたように見え、あたりのものが白くぼやけていく。
 曇りや雨の日は、雲の纏まりが各所でグラデーションを施し、濃度を高めて一面を覆う。常に移動している纏まりには明確な一つ一つがあるわけではなく、その大移動は視覚で捉えることは難しい。
 その一方で、地上は明確だった。
 情報処理が追いつかないほどの物。交差点を横断し、ぶつかることなくすれ違っていく人の群れ。その一人一人が身につけている服やアイテム、個人特有の遺伝子情報で顔に配置されたパーツの数々。そして顔の筋肉が作り出し、可変していく表情。液晶からあふれんばかりに圧しよせる文字情報。
 視覚に映る明確なオブジェクトから逃げるように、地上から視点をあげて空を見るように、視野に映る全てが曖昧なものになるように、私は次第に順応し、明確なものとの接続を絶っていった。

 指先で、手の腹で、柔らかく確かめるように相手の身体をなぞっていく。鼻先で頬の弾力を感じ、甘く刺激的な香料と皮脂の混じる匂いを穴を通して肺へ、そして脳裏に刷り込ませていく。曖昧で数値化するのが難しい一つ一つの情報を、私のなかでいつでも解析できるように、データ化していく。手から得られる立体的な貌は、単純にその高さや幅の値だけでなく、肌触りと弾力、きめ細やかさの情報を内包し、3Dモデリングのように頭の中でそれぞれの感覚を集積していく。どこに何があり、どこに触れると悦びの声をあげるのか。それは同じ人であっても時に変わるものであり、そして誰もが同じものではなかった。目に見える明確な貌は、意味をもたらさず、そうした身体の触れ合いは、曖昧な感覚の集積によって悦びがもたらされるもの。そう信じていた。

「私がなんでこんな顔をしているのかわかる?」
 息遣いは子犬のようにか細く、何かをすするような音の先へ手を伸ばすと、頬が湿っている。わからなかった。悦びを二人で確かめ合い、曖昧なものの集積が、形なくとも二人の中で明確なものとして、露わになっていた矢先だった。それは、外見的な顔の造りの話なのだろうか。
「そんなわけないでしょう。私の顔を見てよ。なんでこんなに泣いているのかあなたにはわからないの」
  長く乱れた髪の隙間に指を差し込み、ところどころに引っかかりのある毛をときほぐしていく。毛先まで流していくたびに、程よく熟れた桃と、人の手によって作られた化学的な匂いの入り混じった香りが指先についてくる。何も言葉を発さず、二回、三回と繰り返していると、腕を跳ね除けられる。当たった相手の手のひらにもまた、湿ったものが感じられた。
 相手の顔がわからなかった。明かりを消した室内で、うっすらとぼやけた何かがそこにあるだけだった。相手の瞳の色も、肌の色も、ホクロの数も、髪の色も、何もわからなかった。それ以上に、指先で触れてきた顔の貌、全身で触れ合ってきた一つ一つの部位、声や内臓の発する音、汗と皮脂の混ざった味、吐息から漏れる香り、それらすべてをわかっていた。それだけで、相手との接続は可能なものだと疑ったことはなかった。
 私の腕を跳ね除けたその手は、ベッドを押し込むような軋んだ音をたてる。布団と衣類が擦れる音を黙って聞いていたが、何かがぶつかるような濁った音のあと、甲高くドアの開く音が鳴る。急いで転がっている衣服を着て外に出ると、相手の姿は見えなかった。空を見上げると、月はかすんでぼやけ、星は一つも見えなかった。

 相手の友人に声をかけられ、眼科と併設されたショップに連れて行かれ、いくつかのCの空いている隙間の方向を指差し、ぼやける赤い気球を見つめ、眼球に風をかけられる。お試しで、とつけられた薄い膜は瞳の中に溢れる感情のエキスを乾かし、外へと押し出していった。その先に広がっていたのは、やはり元の明確なオブジェクトの集合だった。
 検査が終わり、残数が少なくなる頃に忘れないよう定期購入するオプションの事務的な手続きを済ませ、受付のソファへいくと、ずっと待ってくれていた友人の隣には相手の姿があった。照明を浴びて黒く輝く長い髪に囲まれた顔には、白くふっくらとした肌にうっすらと桃色がかった頬と原色に近い紅の塗られた潤った唇が置かれていた。目の中でうっすらと潤った液体は、瞳の茶色を反射しているようだった。
「お疲れ様。どうだった」
 その言葉に、可愛いね、と一言添えると、相手は口を横に広げ、顔いっぱいにシワを作り笑って、手を握ってきた。

 帰り道に、最近の暇つぶしと前々から話してくれていた「インスタグラム」というものを見してくれた。液晶の中に、様々なポーズで友人と写真に映る相手の姿や、美味しかったと話していたドリンクと一緒に写る上目遣いの顔や、猫の顔に変化するような映像まで、様々なビジュアルがそこには並んでいた。
 けれど、貸してもらった小さな液晶の中をじっくりと眺めていても、そこに写っている相手と私の頭の中で思い描いてきた相手は、接続しなかった。

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