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短編小説 【 溶けた煙 】

下北沢から和泉多摩川までは、小田急線で約20分ほど。お互いにバイトを終えた夜22時ごろ、私たちは行きつけの居酒屋で待ち合わせをし、明け方まで盃を交わした。朝が夜を飲み込むころには、駅に近づくにつれてスーツを着た者から楽器を背負った者まで、夜通し下北沢の街を彩っていた人々が電柱や道路と一体化し、下を向いて項垂れている。

「水、買ってあげたい。」
「たぶん、この量だとキリがないな。」
彼はそう言って大きなあくびをした。
「バイト、だるいなー。」
「夕方でしょ?起こすよ。」
「助かるー、いつもありがとうな。」

下北沢の朝を、私は彼と一緒に何回も迎えた。調子に乗って少々飲み過ぎてしまう私に「飲み過ぎるなよ」と告げる彼の声はいつもどこか踊っていて、内心では酔っぱらう私を見るのを楽しんでいるかのように思えた。

2人で改札をくぐり、肩を並べてホームに立つ。始発電車が到着すると、彼は適当に空いている座席に私のことを案内し、眠気覚ましにと私の前に立った。電車の動きに身を任せている彼の体は不規則に揺れ、停車するたびに少しよろめいていた。両手でつり革を握っているせいかTシャツが乱れ、少しだらしない印象を与える長さまで下したジーンズからは彼の下着が顔を覗かせている。
「恥ずかしいよ、それ。」
指を差して笑いながら尋ねた。
「お前にしか見せないからいいんだよ。」
少しだけ腰を曲げ、私に顔を近づけながら言った。右口角だけが微妙に上がった、得意げな笑みだ。彼はたくさんの顔を持っていた。中でも彼の笑った顔は、私に最高の癒しを与え、すべてを包み込む優しさを感じさせた。一方で、私はその優しさに甘えながらも、どこかで彼の全てを受け入れることを拒んでいた。自分の中に眠る正体不明の感情に、名前がついてしまうのを常に恐れていたからだ。

電車の中にいると、あたかも時間が保存されているような感覚に陥ってしまうが、私が思いを巡らせるのと時を同じくして、始発電車は一日の始まりと終わりを唐突に知らせてくる。それぞれが、違う思い出を引きずって同じ時間を過ごす。私たちは、夜が朝に帰っていく瞬間を、いつもそっと見届けていた。

最寄り駅に着くと必ずコンビニに寄って缶チューハイを二缶買い、多摩川の河川敷へと向かう。どちらかが言い出すわけではなく、私たちはごく自然に同じ朝を繰り返していた。彼は決まって車道側を歩いた。触れ合いそうで、触れ合わない肩と、缶チューハイを持って埋まった彼の右手と私の左手。いくら時を重ねても縮まることのない距離を、確かに噛み締めながら歩いた。

辺りがだんだんと明るくなってきた。朝の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込む。
「煙草の煙がこれだったら、完全無害だな。」
「その前に煙草やめないとだめだよ。」
「言えてる。」
彼は優しく微笑んで、背伸びをした。
「眠いなあ。」
「眠いね。」
「こんな早朝からジョギングしてる人、尊敬しかないですわ。」
「たぶんみんな、私たちより年上だよ。」
「体力すげー!」
「あ、前からおじいちゃん走ってくるよ。」
「ご苦労様です、だな。」
「とりあえず、おはようございます、でしょ!」

他愛ない会話に、自然と笑みが溢れる。私たちは、話すべき話をしていなかった。しなかったのではなく、したくなかったのだと思う。表面的な繋がりだけで、満たされていると思いたかった。お互いの良いところはいくつも見つけることができたが、悪いところは決して見ようとしなかった。はっきりとは見えない傷口にいち早く気づき、そっと絆創膏を貼ってくれるような、ささやかな優しさが大好きだった。だからその反面、見え透いた嘘が手に取るように分かった。無理して笑うことなんてないよと、抱きしめてあげればよかったのかもしれない。彼の横顔を後目に、数々の思い出が脳裏をよぎった。

彼の住むアパートに到着し、階段を上って部屋へと向かう。ジーンズの後ろポケットに手を入れ、財布の中から鍵を取り出した。部活はずっと室内競技で幼い頃はピアノを習っていたという彼の腕や指は、小さな動きでもしなやかに動き、肌の白さが際立った。ギターを弾いたらきっと美しいんだろうなと、彼の指を見るたびに思っていた。

「今度金髪にしてみようかな。」
鍵を開けながら呟いた。
「え、どうしたの急に。」
「お前、好きかなって。」
目を合わせることはなかった。彼の吐き捨てた言葉が、私の足元に落ちていく。ドアが閉まる音が耳の奥で鈍く鳴って、これは現実なのだと悟った。
「え、あぁ、うん。いいんじゃない?」
「なんだよ、適当だなー。」
本気で、そう思っている。何をしても、どんな服を着ても、絶対に似合うよ。
「嘘じゃないよ。てか、私もしようかな、金髪。」
「え!まじか、絶対似合う。うれしい。」
生ぬるい返事が返ってきた。私は、彼にどこまで求めていいのだろう。髪色を揃えること、同じバンドのTシャツを着ること、会いたいという本心を隠して呼び出し、日が昇るまで一緒にお酒を飲むこと。一人では永遠に答えを出すことができない問いを、私は自分の中にしまい込んでいる。

(ねえ、あのさ。)

何回呼び掛けても、その声は届かない。私の中で、繰り返されるばかりだ。

彼は、部屋に上がるとおもむろにベランダへと向かい、煙草を吸い始めた。彼の吐き出した煙が、柔らかな朝に溶けていく。先端の赤い炎が濃くなったり薄くなったりするのを、私は静かに見つめていた。
「涼しくなったな、最近。いや、朝だからか?」
「そんなような、気がしなくもないね。」
「もう、秋かな。」
彼は私に微笑みかける。深いようで浅い、生産性のない会話。明日には忘れてしまっているような、まるで煙草の煙のような、そんな温度が心地よかった。

優しい風が、ほんのりとした秋の香りを連れてくる。本当に夏が終わりそうだな。ふと、そんなことを考えた。
「ねえ。」
「ん?」
細く長い指で、灰を落としながら返事をした。
「煙草、吸ってみたい。」
「え?やめてほしいんだろー?」
「ねー、いいじゃん。少しだけ!」
「だーめ!」
彼は私に背を向け、首だけをこちらに向けて意地悪に微笑んだ。この大きな背中に、今すぐ抱きついてしまいたい。私たちの笑い声が静かに響いた。

遠くに電車が走る音が聞こえる。

「そろそろ寝るかー。」
「うん、そうしよっか。」

同じ繰り返しのようで、二度と訪れることのない朝。

今日はなんだか、新しい景色が見たい気分だよ。


文 : miki
写真 : Pinterest

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