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神様が私に働きかけた経験談

神様はいるのかいないのか,多くの日本人が疑問に思うことではないだろうか.
かくゆう私も神様の存在について疑問に感じていた1人だった.
しかし,今の私は,はっきりと神様の存在を信じている.
また,神様が自分に働きかけることを感じている.

今日は一つ,神様が自分に働きかけた経験を話し,神様を信じる人たちが1人だとしても増えることを切に願います.

私の就職活動の体験記を話そう.
私は就職活動の時期,とあるゲーム会社を志望し,面接を受けることとなった.
将来,ゲームを通して理想的な世界を作りたいと思っていて,その会社ならその願いを一番に叶えられると思っていたからだ.
実際,確信は持てていなかったが..

ともあれ,私はその会社の書類選考を突破し,一回目の面接を受けることとなった.
しかし,それまでの私はというと,面接までこぎつけるものの,面接で思うように自分のことを自信を持って話すことができず,いつも一回目の面接で落ちてしまっていた.
大学時代で過ごしてきた経験に自信を持つことが到底できず,自信を持って話せることがなかったのだ...

だから,私はその会社の面接を受けることに対して,大きな不安を抱いていた.
面接を通過できる自信も正直なかった.
本当に胸が苦しかった.

しかし,結果から述べると,私はその最初の面接を突破することができた.
それは,神様が自分に働きかけたからこそ超えることのできた壁だった.

時を少し遡ると,私は就職活動が盛んに行われる5月に,就活に対してひどく深刻な状態となり,ほとんど絶望に近い状態になっていた.
先にも書いた通り,面接で自分のことを自信を持って話せることができないし,そもそも自分に自信が持てない.面接にも通らない.
自分の人生は先に続くのか,どうか,不安に感じてしまい,人生に対して,ひどく不安になってしまっていたのだ.
人間の価値が就活で内定を取れるかどうかにかかっているわけでもないのに,そんなことで心が動かされ,揺らいでしまう自分がいたし,そんな自分がとても嫌で情けなく,本当に苦しかった.
自分としては,人生に対して真摯に向かい合ってきたつもりだったし,努力してきたつもりだったけれど,その結果が今なのかと思ってしまい,自分の人生の意味についてひどく問い直していた.
今でもまだそうだが,周囲から認められる存在なのか,,社会的に価値のあることができているのか,そういった軸でばかり自分の価値,貴重さを測ってしまうので,就活がうまくいっていない今の自分に耐えられず,あまりに苦しい状況だった.

とうとう私は,自分で自分の人生を切り開こうとすることに見切りをつけて,人の力を頼ることにした.
プライドを捨てた.ある意味で自分に負けを認めた.当時の自分の思いとしては,「人生は終わってしまったのかもしれない.僕はもうダメかもしれない.」
そんな感覚だった.

そうして,私が頼みの綱としたのが,宗教だった.
聖書だった.
一度は学んだことのある聖書の内容にもう一度触れ直した.
一度は離れた道を,プライドを捨ててもう一度学ぼうと決心した.

「自分もついに宗教に手を伸ばすほど弱くなってしまったのか,自分も弱い存在になるのか.」
ととても悲しい気持ちになりながら聖書に手を伸ばした.

しかし,後になると,それが自分の人生を真に覆していく転機となっていた.

最初,聖書について学び直した時,もう藁にも縋るような思いだった.
今の自分を自分が変えることのできないどうしようもない状況を,ただひたすら神様を信じて,祈って,助けを切実に願い求めて,就活の状況を変えてもらえるように,より具体的には面接に通過できるように切実に祈った.

一応ここで補足しておくが,聖書は神様が人を通して書いた書物である.
なので,聖書を学ぶということは,聖書を書いた神様について学ぶことである.
また,祈りとは,神様と対話することだ.
形式的なものではなく,その時,その時,神様に感謝したいこと,間違いを犯して申し訳なかったこと,これから頑張っていきたいこと,神様にしてほしいことを告げていくことだ.
聖書を学び直していくうちに,私は徐々に聖書に書かれている話に心打たれるようになっていき,聖書を通して学んできた精神・思想を持ってして,就活の面接に向かうようになっていった.
そうして,聖書に出てくる偉人がかつて戦いの時に大胆であったように,自分も就活の面接で大胆になろうと決心し,かつ,神様に切実に願い求めて,面接で大胆に話せるようにとお祈りして,面接に臨んだ.

そうするとどうだったか.
私は見間違えるほど変わっていた.
とにかく,大胆に話すことを意識した.
自分がどうしてその会社に必要なのか,はっきりとした目的を持って,終始大胆に話すことに努めた.
初めから終わりまで,自分には自信が満ち溢れていたし,言葉にも力がこもっていて,最後まで大胆に話すことができた.
これは話していた自分が1番に変化を感じ取っていた.
面接官の反応もよく,やはりこちらが自信を持って話す分,聞いている相手側も楽しそうで,面接の雰囲気も良かった.

この経験だけで私はすでに神様の働きを感じていた.
「こんなことは今までになかった.変わることのできなかった,また変わる勇気が持てなかった自分が,聖書を通して過去の偉人の生を学び,その精神を受けて,自分も実践し,かつ,神様に祈ることで,これほどの力が内側から湧き出て,人を魅了するのか」
とびっくりしていた.
そうして,半ば興奮したまま,面接を終えた.

そして,驚くべきことが起こった.
それは,ただ面接に通過するだけではなかった.
それ以上にありえない奇跡が起きた.

それは,私は面接を終えて,面接の結果通知を待っていた時だった.
私は就活を並行して進めながら,聖書について人から教えてもらっていた.

聖書を教えてもらっている時,ある聖書の聖句を引いていた.
それは以下のようなものだ.

マタイによる福音書7章7節
「求めよ,そうすれば,与えられるであろう.捜せ,そうすれば,見いだすであろう.門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう.」

これは,私が「祈り」についてどういうものか教えてもらっている時に,引いていた聖句だ.
そしてこの聖句を引いて読んでいるときにちょうど事が起こった.
それはそばにあったスマホを見ると,一件のメールが入っていた.
私は聖書の講義をパソコンで動画として視聴しながら見ていたので,スマホの画面を見ながら,「もしかしたら面接の結果かもしれない.」と思って,メールを開いてみた.
すると正に,それはゲーム会社の面接の結果だった.
そして,結果を見ると,「一次面接通過」と記されていた.

そう!通過していたのだ!
あれだけ面接に落ちていた私が,ついに面接に通過したのだ!
これは私にとって大きな大きな進歩だった.
自分もやればできるのだと自信を持つことができた.

何より1番の驚きだったことは,ちょうど聖書の引いていた聖句の内容が,その時の自分の状況に完全に一致していたということだ.
マタイによる福音書の7章の7節の聖句は,聖書について知らない人たちも知っていることのある非常に有名な聖句だ.
これは,神様に願い求めれば,与えられる.そういう聖句だ.
私はまさに,神様に切実に願い求めて,面接に通過できるように大胆な精神をもらえるようにと願っていた.
そして,実際に面接では大胆に話すことができ,面接の感触も今までにない最高の出来だった.
そして,結果を見ると,なんと通過していたし,ちょうどそのタイミングで該当する聖句を引いていた.
「こんなタイミングあり得るのか,偶然なはずがない.ありえない...」
まだ神様の存在について確信が持てずにいた私だったが,その経験を通して,私は神様の存在を認めざるをえなかった.
「こんなことが起こりうるのか,この面接の結果が返ってくるタイミングにちょうどこの完全に状況と一致する聖句を引いているなんて,,,どう考えても偶然ではない.これはもう神様が働いたと認めるしかない...!」
そう確信した.

面接の結果が1日早くなることもありえたし,1日遅くなることもありえた.
また,聖句を引く1時間前,3時間前にメールが来ることもありえたし,1時間後にメールが来ることもありえた.
絶妙なタイミングで面接の結果通知と,聖句を引くタイミングが重なった.
これは神様が働いたとしかいえなかった.偶然に起こることでは絶対になかった.

この経験を通して,私は神様の働きと,神様の存在をはっきりと認めるようになった.
そして,今でも私は神様を信じているし,神様がいつも助けてくださることを信じている.
今日は神様の存在を証した.
このような機会を与えてくださった神様に感謝します.
この証が多くの人に読まれ,1人でも多くの人たちが神様の存在に気づき,人生を本当の意味で幸せに生きることができるように心から祈ります.
感謝します.主の御名で祈ります.アーメン.

いつもありがとうございます^^