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突然消えた剛ではなく、フレディやほんの少しカールスモーキーのこと #シロクマ文芸部

 変わる時がある。誰にでも。
 私の場合は高二の六月だった。突然、剛が消えた。
 
 剛は、バンド仲間だった。というか、剛が友達三人と組んでいたバンドに私たちが押しかけて、マネージャー役をやったり、曲によってはキーボードを弾いたりしていた。中三の学園祭で、フレディの「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」を薫が歌うのを観てーー今にして思えば、私もあの時薫が気になったのかもしれないけど、何であれゴチャゴチャ考えてしまう私は、自分にさえ気持ちを素直に認めることができなかった。だけど、光留ひかるは「あの人、いいよね」とライヴ会場で私にささやいた。

 光留が惹かれたのは、(幸いにも薫ではなく)ドラムスの通雄だった。私には濃すぎる顔だったが、ドラムの腕は悪くない(と生意気にも考えた)。
 中学生。アイデンティティを求めて、人との差異にこだわる時期だ。私たちーー私と光留、由美の三人が見つけた差異は、"洋楽を聴くこと"だった。

 ストリーミングで一人一人が好きな曲を聴ける今とは違い、当時はテレビで流れる歌をみんなが聴いた。ドラマの主題歌、CMのタイアップ曲。 
 中二の音楽コンクールで、私のクラスは米米クラブの「浪漫飛行」を歌った。JALのCMに使われて大ヒットした曲だ。

「カールスモーキー石井は、コマーシャリズムに魂を売ったわけだよね」

 歌の練習中に、私は光留や由美に語った。今にして思えばただの厨二病だが、小学生の頃からFMラジオを愛聴し、渋谷陽一やピーター・バラカンを師と仰いでいた私にとっては、言わずにはいられない科白だった。そもそも米米クラブは最初からタイアップを否定していなくて、ファーストシングルの「I・CAN・BE」も、何かのCMに使われたはずだ。しかし、あまりはやらなかったので、私の中では「魂を売った曲ではない」ということになっていた。

 光留と由美は私の見解に異議を唱えず、私たちは「JALに乗っ取られたグループの曲を歌う恥ずかしい私たち」というスカしたポーズをとった。これを他の生徒にまでひけらかしていたら黒歴史になったと思うが、幸い、三人の間だけの話だった。私たちの中学では、いじめ(主に無視)が蔓延していたので、心を許せる友人以外には、極力余計なことを言わないようにしていたのだ。うっかり所属してしまったバトミントン部にはいじめ好きの同級生が二人いたので、「そうだね」「(深くうなずきながら)わかるよ」以外の言葉を発せなかった時期もあるほどだ。

 当時はコマーシャリズムに魂を売った曲を拒否したら、日本の曲はほぼ聴けなくなる時代だった。だから、私は洋楽を聴いた。父も兄も洋楽ファンだったので、家には洋楽のLPやカセットが多数あった(既にCDの時代だったが、父がLP時代の最末期に高価なレコードプレイヤーを購入したので、我が家ではCDは顧みられることがなかった)。

 ピーター・ガブリエル、スティング、クイーンのロジャー・テイラー。今ならイケオジと呼ばれそうな英国のミュージシャンを私はこよなく愛した。光留と由美は、私のオヤジ趣味には与しなかったが、当時既に亡くなっていたフレディ・マーキュリーには興味を示し、クイーンの曲を好んで聴くようになった。

 中三の秋に友達のツテを頼ってA中学の学祭のチケットを入手したのは、クイーンのコピーをやっている生徒がいると聞きつけたためだった。実際には、クイーンのコピーバンドというよりは、小田和正からビートルズまで何でも演奏するバンドだったのだが、オープニングは「ウィ・ウィル・ロック・ユー」だったし、アンコールはフレディのソロ曲「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」。それを聴いた光留がドラムスの通雄に一目惚れしたわけだ。

 光留は行動力のある子だったので、坂脇通雄にファンレターを出すと言い出した。

「坂脇君って、けっこうモテるみたい」

 A高校に通う兄から聞いた情報を由美が伝えた。

「うん、そりゃ、カッコいいしね。あの人がボーカルやればいいのに。フィル・コリンズみたいに」

「ルックスもだけど、そこそこ有名な会社の跡継ぎなんだって。医療機器メーカーだったかな」

「えっ、そうなの」

 光留は嫌な顔をした。光留には、そんな属性は関係ない。結婚するわけでもないのに。有名メーカーの御曹司という地位に釣られる子たちと一緒にしてほしくない、という気持ちの表れだと私にはわかった。

「坂脇君と音楽の趣味が同じってことをアピールしてみたら?」

 私はそう提案した。

「いいね、それ。ストレートに書くと重く思われそうだから、詩を書いて送りなよ」

 宮沢賢治の詩が好きだった由美もアイデアを出す。

 私たちは、ライヴで彼らが自作したと思しき曲も聴いた。ありがちな青春ソングだったが、作詞作曲をして自分たちで演奏できるだけですごい。
 そんなことができる男子に、普通の手紙を送っても何の印象も与えられないだろう。

 というわけで、私たちは三人で詩を考えた。最終的に出来上がったのは「フレディがいなくなった日、私は」という自由律の詩だった。便箋に書き、自分の名前で坂脇君に送ったのは光留だが、主に詩を作ったのは由美だ。宮沢賢治を好きなのは知っていたが、抒情的でムードのある詩が書けるとは思いもしなかった。
 
 詩を作ったのは由美だが、詩の中身は主に私の経験だ。フレディ・マーキュリーが亡くなった日、兄と一緒にクイーンの全アルバムを聴いたこと。途中で父も加わって、武道館のコンサートに行くはずが、妻の出産と重なって行けなかったと語ったこと。その時生まれたのが兄だとか。
 フィクションもあった。フレディを奪ったエイズについて話し合ったと詩にはあるが、保守的な父は、子どもとそんな話はしたがらなかった。
 ラジオで突然「ボーン・トゥ・ラブ・ユー」が流れ、兄がフレディの死を悟る話も。ある日、ラジオで突然「テネシー・ワルツ」が流れた。それを聴いた母が「江利チエミ亡くなったんか…」とつぶやいたのが、兄の最も古い記憶なので転用した。

 光留と由美と私と、三人で書き上げた詩。後に薫がその詩に曲をつけた。
 詩と音楽のおかげで、あの日の記憶は今も色褪せない。「おい、瑞樹。フレディ・マーキュリーが死んだ、フレディが死んだ」という兄のうわずった声まで思い出せる気がする。本当にそんな風にしてフレディの死を知ったのかどうか、定かではないのだが。

 定かでないといえば、フレディの伝記映画がヒットした時、光留の娘に訊かれた。「ママと瑞ちゃん、フレディ・マーキュリーが死んだ日に一緒にレコード聴いてフレディを偲んだんだって?」と。

なんのはなしですか

 フレディがいなくなった日、私たちは小学生で、まだ知り合ってないよ。そう答えようと思ったがやめた。
 思い出は人それぞれ。今、心にある思い出を大事にすればいい。真実は、どこか手の届かない場所にある。時に消え失せ、時には形を変えて蘇る思い出を胸に刻もう。

(再び)なんのはなしですか


 剛が突然消え、私たちが変わった話を書くつもりでしたが、全く違う話になってしまいました。剛が消えた話は(そもそも本文にほとんど登場していない剛の紹介も含めて)またいつか。

 先日、とある企画に参加した経験がとても楽しかったので、シロクマ文芸部にも参加してみました。
 今回は創作での参加です。
 原稿用紙百枚超の小説は何作か書いたのですが、note一回で収まる長さのものは初めてです。小牧様、吉穂みらいさんと青豆ノノさんほか諸先輩方、初心者ですが、よろしくお願いします。

#シロクマ文芸部

#なんのはなしですか


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