君の腕に蚊が止まっている。わたしは何も言わずに横目でただ、じっと眺めた。夢中になって血を吸う"ヤツ"は、ほとんどわたしのものであろう血液を、あろうことかわたしの隣で自らのものにし始めた。せめて彼女が
「いただきます」
の一言さえ言えていたら、わたしの"ヤツ"に対する印象は少しでも好転していたかもしれないというのに。

君は一人の視線と腕に刺さる一本の針の感覚を一度に味わいながらも、それに気付いていないようだった。その腕に麻酔が効いているとも知らず、五分前と同じように涼しそうな顔で一枚二枚とページをめくる。全く、無感覚とは贅沢なものだ。

次第に赤く膨れていく彼女の腹部と、少しずつ蝕まれていく君の血液。何もなかったかのように奪われ、気付く頃にはもう遅い。こんなふうに、わたしも少しずつ君を蝕んでいけたらどんなにいいだろうか。

君の腕と、そこで食事中の彼女に夢中になるあまり、わたしは気が付かなかった。本をそっと閉じた彼がもう片方の手の平でぱちん、と音を立ててそれを潰すまで。

「気付いてたんなら言ってよ」
あまりにも無機質な声に、少しだけ肩がすくむ。普段ならすぐに声をかけていたはずだったのに、今日はなんだかそれが出来なかった。君のものでいっぱいに満たされた彼女を見てみたかったのかもしれない。

うわ、と驚きの声を上げながら大げさにティッシュを取り出し、こんなに吸われてた、と血のついた腕をわたしに見せてくる君。そこには彼女の死骸があった。

蚊は、血を吸っている時が生涯の中で一番無防備になる瞬間だという。わたしにとっては、それが今なのかもしれない。





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