表現の自由とは何か

言論及び表現の自由を、差別的な発言等の許容と混同する意見を頻繁に見聞きする。

それは、一般大衆のみならず出版社や (話題の週刊ポストをはじめ)、言論の自由に拠ってたつ存在といってもよい作家・ジャーナリスト達からの口からも平然と発せられている。

https://twitter.com/nippon_ukuraina/status/1170484897808470016?s=21

先ず、このナザレンコ・アンドリー氏による二点の意見を個別に見てみれば

「ヘイトスピーチ → 差別的発言」

「オリンピックで旭日章を積極的に掲げる → 戦争の遺恨への逆撫でをする行為」

このような意味を含むものであると思われる。

表現の自由とは、文字通り、民衆のその自由が、国家権力から抑圧を受けないよう憲法に明記された権利保障である。

であるからして、言論や表現の自由が保障されるべきならば、

差別的な表現や発言、植民地支配を受けた側に残る遺恨を積極的に刺激しようとする行為 、

これも良しであろう、となるはずがない。

表現の自由を「何でも表現しても良い権利」と混同した考えを主張、発言する人間、

これを、世間一般では「分別がない人間」といわれるはずである。

このような現代人として「当たり前」のモラルをも持ち合わせていない人間が、作家・ジャーナリストとして堂々と振る舞い、差別的な言葉が並べたてられた書籍が、平然と書店に多く陳列されている状況には悲しみをも覚えるが、

高知出身の作家・ジャーナリスト、門田隆将氏による、韓国への侮辱は良しとし、日本への侮辱は許されないというような数々の主張には、

https://twitter.com/kadotaryusho/status/1169503599807717378?s=21

同じ高知県の人間として、落胆の念を通り越し、最早呆れかえるばかりである。

(この類の人間がよく言う反日ヘイトとは、現在の日本へなされている批判、ヘイトではなく、大日本帝国時代の日本への批判であるが、門田氏のような主張をする人間は、その時代の日本を賛美する傾向にあり、現在の日本と大日本帝国時代の日本との分別ができない思考力と、その時代の何かに捕らわれた思想の持ち主であると思われる )

また、作家・ジャーナリストを名乗る者の他にも、政治家では、戦争をほのめかすことも表現の自由であるとした丸山ほだか氏の主張からも分かるように、世間には大きな勘違いからなされる誤った表現の自由の主張が跋扈しているように思う。

( そもそも、国家権力から保障されるべき民衆の権利を、為政者が公の場でする言論についても保障されている権利だと主張することは誤った解釈であろう )

ここ最近では、あいちトリエンナーレの問題もあり、取り沙汰されることの多い表現の自由。

2015年 1月にお亡くなりになられた「表現の自由」研究の権威といわれる奥平康弘氏の一言にその意味は集約されている。

「表現の自由は、個人のエゴの表出のためではなく、社会をよくするためにある」

表現の自由とは何かを問うた時、奥平康弘氏のこの言葉を思い出せば、自ずと正しい答えは導き出されるでしょう。

#言論の自由 #表現の自由 #モラル #倫理 #奥平康弘


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