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連載「私と女優と人生と」

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女優の姿を通して、「ホンモノの大人とは?真の女性の美しさとは?」をお伝えしていきます。
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#女優

“自分の顔”はいつ完成するのだろう ロミー・シュナイダーの場合

“20歳の顔は親からの贈り物、50歳の顔は自分の価値がにじみ出るもの”という言葉がある。若い時はすでに存在する価値を知るしかなく、己から湧いてくる自信などあったとしても強がっているか、世間知らずなだけかもしれない。しかしそこから30年以上、“自分の顔”を引っ提げて生身で生きてきたならば、そろそろ周囲と比べない顔を持ちたいものだ。 女優ロミー・シュナイダー、彼女の日記で構成された本がある。「音楽、お芝居、映画、旅行、芸術 この五つの言葉を耳にするとどうしようもなく血が騒ぐ」と

競わない先の成熟の在り方 キャサリン・ヘプバーンに学ぶ

ニュースには、もう良いニュースの枠は無くなってしまったのではないかと思いたくなる日々が続いているが、私にはひとつ希望に感じていることがある。かなり歳の離れた世代に感じる『競わない成長』感覚だ。私が子供の頃は、悔しさの後に成長があったものだし、下の世代で順位をつけない運動会が始まったときには大いに疑問を持ったりした。しかし今、大きな声で目標を掲げなくとも、競争心をあおらなくとも、柔和な斬新さで革新していく若者たちの存在があると思っている。競うとはどこかに線を引くという事だが

変わらぬ体型のまま魅力を進化 女優イザベル・ユペールの場合

“動的平衡”私は今この言葉に夢中である。簡単に言うと「ミクロでは変化しているけれど、マクロでは変化していない」ということらしい。ひと月前の身体と今日では細胞レベルでは別のものなのだそう。生命を維持するのに必要な方法だと。福岡伸一先生の講義で知った言葉である。 「ミクロでは変化しているのに、マクロでは変化していない」のは、「変化」か「無変化」か。「上手い変化」とみるのか、「長く続く安定」とするのか。いったい、何の話だ。そう、今回の女優 イザベル・ユペールの話。 女優として素

愛とは行動すること。強き麗しの妖精・オードリー・へプバーン

美しさについて学べば学ぶほど、それは日々の行動と思考の積み重ねであり、内なるものだと(厳しいけど)思う。ファッションとは移り変わるものなのだが、ここのところ、一過性の美には、興味が持てない。そう思ったら今書くべき女優は、オードリー・ヘプバーンしかいなかった。 ファッションを最大限魅力的に着こなせる女優として、軽快なものから思慮深いシックなものまで、『ローマの休日』『パリの恋人』『ティファニーで朝食を』など、どれだけ見たかわからない。旬な誌面にもファッションのお手本として、い

自由とは白黒つけることではない。大人の自由なグレーについて

2017年のはじめ頃、衝撃的な歌詞を聴いた。その名も『おとなの掟』。グッときた。キーワードは、「自由」「おとな」「グレー」。 私には今までなんとなく“思っていた事”があった。我が国で自由な大人になるためには、ある特定の分野で経験を積み、白黒はっきりさせる為の術を身に着け、極力時短で事を済ませなくてはいけない。そして、その道の専門家になる。なにかの専門家になるのは良しとしても、それと自分本来の「自由」を手にすることと、果たして同じなのだろうか、と。それは、本当に成熟の先にある

怖いのは世間ではない、正直さを欠いた自分だ・山口百恵の場合

日本に向けた褒め言葉として海外から「COOL」と言われるかなり前に、元祖クールな女性がいた。それが今回の女優・山口百恵。そう、昭和の歌姫だ。日本のお茶の間の中心にテレビがあり、そこに登場するスターには、プライベートなど無かった時代。古い時代が全ていいとは思わない。私はいつでも「革新」が好きだ。けれど、この時代の芸能界にいて“自分の中の正直で誠実な価値観”で判断し、発言し、行動し、貫いている女性は、そうそういない。ふわふわとフランス女性に憧れてなんぞいる私の“本当の原点なのだ”

“私だけが知っている魅力”に人は恋をする。あなたは親密な関係を持っていますか? ファニー・アルダンの場合。#ジュヌセクワ

“自分の人生を生きる”ために、服はもちろん、価値観さえも自分で選ぶことをレッスンしている195教室。 これは、あるひとりの監督によって確立されたといっても過言ではない私の仏映画好きと関わりがあるのだと感じたのは、つい最近のこと。 “頭を働かせること、屈しないこと、人を笑わせること、軽やかに振る舞うこと。深みのあることをさりげなく言う術を心得ている稀有な知性の持ち主”と言われたフランソワ・トリュフォー監督である。 今日は、そのトリュフォー監督に見いだされ、愛された女優ファ

最強の“境界線”を手に入れた自然なまなざし。ソフィー・マルソー

なんでもない毎日を、少しでも楽しくするには、“境界線を自分で決めること” だと私は思っている。マイルールと言ってもいい。大きなことでなくていい。 本来の目的を忘れてしまったような「日常」の動作に、「ここまで」という境界線を引く。それを意識する、ということだ。 ファッションでの境界線とは、ずばり『ネックライン』。 特に夏から秋にかけて。真冬の寒さが来る前に(寒さを凌ぐ一番は襟元を閉める事なのだ)、“自分史最高の自分”を引き出すネックラインに出逢えたら、精神的にも大きな自信

映画よりもドラマな生をいき抜く存在の樹木希林

「なぜか気になること」を密かにずっと溜めておくと、あるとき点と点が繋がって、気になっていた理由がわかって、有難い気分になることがある。この瞬間こそが、「オリジナルな人生」への途中なのかしらと思う。 気になること、とは女優・樹木希林さん。 ハレ舞台での着物の着こなし、実に筋の通った痛快なコメント、有名な夫婦事情。役柄以上に「人生そのもの」が、オリジナルに満ちている。 誰もが、自分らしい人生を生きたいと思っているし、できれば「自分の命はツカイキリタイ」と、感じているのではな

姿勢もファッションの一部 女優ローレン・バコールに学ぶ

映画の魅力は、セリフ、音楽、沈黙、ドラマといろいろあるが、「女優から学ぶ」となれば一番は、その“動き”だろう。 小さな動きとしての“しぐさ”については、すでに何回か書いてきた。個人的には、フランス女優のしぐさのチャーミングさは抜群と思っていて、映画の主題を忘れて見入ってしまうほどだ。 けれど、今回の女優はアメリカから。ローレン・バコール(Lauren Bacall)という女優をご存知だろうか。 アメリカという国は、1943年(戦時中)にも映画を作っていて、彼女はそんな時

“等身大の自分”を明るく生き抜く女優、ジュリー・デルピーの魅力

人にはそれぞれの悩みがあり、あるひとには心を覆う深刻なことでも、他のひとにはそうは思えないことや、切れた電球を取り替えることもスーパーの閉まる時間も重要だけれど、地球上で起きている争いごとのほうが解決すべき問題なのも間違いない。 つまり、考えるべきことには階層があって、鳥目でみたり、虫眼で見たり、自分の経験で考えたり、読んで知っていることで考えてみたり。そんな大げさでなくとも、大切な身近な人に対しては、常に「誠実に存在したい」と思っているのではないだろうか。 しかし実際に

「セクシー女優」と見せかけて、常に「精神」や「愛」の存在でもあった。マリリン・モンローの場合

モノゴトには裏と表がある。そして、その距離が離れていればいるほど、モノゴトの意味は深く、魅力的になる。 そんなことを、ある夜に考えさてくれたのが、本日のお手本、女優マリリン・モンロー。私が子どもの頃、初めて覚えた外国の女優さんかも知れない。 小学校へ持っていく「自分だけのお気に入り」文具を探そうと、毎日のように通っていたファンシーグッズのお店で、初めてマリリンを知った。ジェームズ・ディーンとともに多くのグッズになっていたくらい人気だった彼女。 当時、セクシーという名と同義語

生命体を繋ぐ女の“しぐさ”は、フランソワーズ・アルヌールにあり

ここ広島にいると、日々多くの外国人の方とすれ違うのだが、中でもユーロ圏だと思われる場合、「カップル」がほとんどだ。「こんな風にパートナーと旅するっていいな」と、いつ見ても思う。これはパリに住んでいたときから感じていたことだが、フランス人と日本人とでは、「カップル」としての生き方、関係性がちょっと違うように思う。それは、日常的な価値観の違いに関係するのではないだろうか。 「恋やデートにはお金がかかる」と思う日本人とは違い、「節約してでも人生を楽しむには恋をするのが一番!」と考

“真のスタイル”を持ち続け内なる美を放つ吉永小百合

今回お手本とする女優さんは、吉永小百合さん。 私が子どもの頃からずっとスターで、「芸能人」という括りでは表せない格別の位置に居る方。けれど実は私、一度も彼女に「憧れ」を持ったことがなかった。幼稚だった私には「おしゃれ」だと感じなかったからだ。 ところが今、凛として生き続ける小百合さんの姿を見て、私の心に「憧れ」というものが生まれ、「個性とはこういうものか」と改めて気づく大きな存在となっている。個性とは、エッジでも、流行でもなく、たとえ誰に注目されなくても“ずっと続いている