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そうだ、私はアンナ・カリーナになりたかったのだ

9月13日、ジャン=リュック・ゴダールが亡くなった。一番好きな映画監督かと聞かれればそうではないのだが、そのニュースを目にしたときの喪失感は、思いもよらず大きなものだった。

ゴダール監督が好きだなんて言えるはずもないのは、彼の映画を理解することなんて私には不可能だから。唯一わかることがあるとすれば、映画の中で女優アンナ・カリーナが、他に感じた事のない魅力に溢れているということ。

デンマークはコペンハーゲン生まれ、本名ハンヌ・カレン・ブレーク・ベイヤー。アンナ・カリーナというフランス風名付け親は、あのシャネルだとか。彼女はゴダールと出逢ってアンナ・カリーナになったのか。そうでなくてもアンナ・カリーナになったのだろうか。

映画や本に意味があるのか?あるとすれば、それを体験しているときの自分に何かが起こる、ということだと私は思う。ゴダール作品を観ていると、理解はできなくとも常に、「思考を強いられる」と感じる。引用される文章の数々、単純で真実で難解なセリフ。彼女が、または彼女に、問いかける。彼女が輝く。観ている側の脳も活性化する。

二人は夫婦だったこともあるが、そうでない時間も長い。アンナ・カリーナはゴダール以外の作品でも素敵だが、出逢った当時の映像が最高に刺激的だ。人間のある部分がそれを魅力と感じる相手の前で引力となって人と人が出逢い、共鳴しあって“ある存在”になっていく。

“誰とも似ていない魅力”、それは誰にでもあるはずなのに、魅力として認識することは難しい。他者との関係の中にだけ、確立するものなのかもしれない。誰かと出逢うこと、会話して思考すること。「アンナ・カリーナはアンナ・カリーナであることを証明する」ためにゴダールは映画を撮ったそうだが、映画監督ではない多くの人間にも、“相手の魅力を引き出す自分になること”は大事で、それこそが生きている証なのではなかろうか。

幸運にも若き日に観たゴダール映画のように、彼女のダンスのように、手も脚も腕も眼差しも、揺れる髪も胸も彼女自身が完璧に操っているかのような自由をまとって、相手を活かす会話がしたい。ゴダールもアンナ・カリーナがいたからこそ、なのだ。

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