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自らの経験を基に思考せよ 高峰秀子の場合

 自分の考えは自分のものであるはずだ、と当然のように思って生きてきたが、どうやらそうでも無さそうだ、と感じる今日この頃。生まれた時からスマートフォンのある世代が、すでに高校も卒業しようという世の中なのだから、生まれたときには家にテレビなんてなかった私世代の脳みそでさえ、何らかの意図をもって無料で流れてくる情報に操られていたりするのである。その中にいて、“如何に自分らしく生きるか”という問いは、毎日の服を選びきるのと同じくらい日常的で大切なことなのだ、と思う。

 フリーになって初めのころ「丁寧な暮らし」という少々甘ったるいムードに浸ったことがある。24時間自由になった自分の未来を、上手く構築しようと思っていたのだ。その頃購入した『高峰秀子 暮らしの流儀』(2012年 高峰秀子/松山善三/斉藤明美著)。文章量と写真のバランスがよく見やすい。先日、その本を思い出す機会があり、改めて彼女のエッセイの数々を読んだ。幼い時に生母を亡くし、父の手に余って養母に育てられ、家族の生活費のため5歳という子役時代から300もの映画に出演。育ての母との壮絶な確執。55歳で引退する前から多くの著書がある。驚くのは、“丁寧な暮らし”的な優雅な文体ではまるでなく、気概と個性あふれる文章なのだ。「金銭製造機」として育ての母に扱われていた彼女は、天才子役と呼ばれていても、小学校さえ十分に通えていない。後に女学校に通う機会も得るが、5本以上の掛け持ち撮影で、月に1日程度しか登校できすにやむなく退学。その悔しさから“学校じゃなくとも人生の勉強はできる”と、善いもの、悪いもの、美しいもの、酷いものを見極める力を自分で掴んでやろうと世の観察眼のギアをあげる。30歳で結婚。九九も漢字も知らない彼女を夫・松山善三ははじめ、カマトトぶっていたのだと思っていたそうだが、本当なのだとわかり彼女に「国語辞典」を購入。彼女は、“結婚と同時にタダの家庭教師を獲得した”と綴っている。

 私はいま、目が見えて、文章が読めて、本が読める時間のあることを、もっと有難く思うべきだろう。そして誰もの時間の使い方が、知らぬ間におかしなことにならないように、自分の眼で情報の剪定をしようではないか。

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