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沈思黙読会で斎藤真理子さんが語ったこと。その①

朝から夕方までたっぷり一日、携帯もPCも、麻薬的なサブスクの映画や連続ドラマも断ち、ただひたすら同じ(同様のテーマ)の本を読む。神保町の片隅でスタートした「沈思黙読会」。はたして、本を読む人の頭の中ではどんなことが起こっているのでしょうか。
 
午前中は10時〜12時の2時間、午後は13時半〜16時の2時間半。あわせて4時間半、思い思いの読書時間を過ごした後、16時からはオンラインでの配信もつないで斉藤さんの読書に関するトークがスタート。話は「読書と時間」というテーマから始まりました。
 
皆で同じ場所に集まって、1日中黙って本を読むという今回の試み。実はやってみるまでは時間を持て余すのではないかと思っていた、という斉藤さん。
「ところが実際には、あっという間に時間が経ってしまった気がしています」との言葉に、会場の皆さんも頷いていました。
そこから、本を読むということと時間の関係について、話は広がります。
 
一冊の本をどのぐらい時間かけて読むかって、決まってないわけですよね。映画だったらーーもちろん早回しで見ることはできますが、それでも1時間30分とか2時間という尺は決まっています。でも本ってページ数は決まっていても、それを何分、何時間かけて読むかっていうのは本当に人それぞれ。本の中での時間の流れ方と実際の時間の流れ方というのは重なったりずれたりするんだな、という当たり前のことを、こんなにあっという間に時間が経ってしまったことで実感しました。
 
さらにスマホを切って読書に臨んでみて、「自分が思っていた以上にあいつらに支配されていたんだな」と、あらためて思い至ったとも。没頭して本を読んでいるようでいて、合間合間にメールやSNSを見てしまっていた。そのことを斉藤さんは「道草」と表現されました。以前とは読書中の「道草の仕方」が変わってしまった。ということは、読書という「旅行の仕方」そのものもきっと変わっているはず。だからこそ、こんなふうに仕切り直して皆で一緒に“読書”というものをやってみることで、あらためていろんなことに気づけるのではないか、と。そして、今回の読書会で考えてみたいと思っていたことについて話は続きます。
 
本を読んでいるとき、特に物語を読んでいるときに、脳では何が起きているんだろうっていうことにすごく興味があるんです。色も質感もない活字というものをただ見ているだけなのに、それこそ時間の流れ方も変わりますし、頭の中では何か大きな変化が起きてるはず。そして、その起き方って多分、一人一人違うんです。でも人と本の話をするときって、本の中身のことに夢中になってしまって、「どうやって読んでいるか」っていう話はそんなにしないんですよね。そこで、この会では普段あまり考えたり言語化したりしない、「読んでいるとき、自分の中では何が起きているのか」ということ。“読む”っていうのは、一体何をしていることなんだろうね、という根本のところを、皆さんとお話をしながら考えてみたいと思っています。
 
その後、月刊『みすず』8月号に寄稿した「詩、夢、訳」というタイトルの文章を朗読してくださいました。それは斉藤さん自身が昔よく見た「大きな本が目の前でぷるるるるっとめくられていくのを、ただ眺めているだけで、何が書いてあるかは全然わからないんだけど、これが読むということだと感じた」という夢について書かれたもので、 

だから意味はひとかけも残らない。
だが、あれを「読む」と言わないなら、
「読む」とはどういう行為を指すのだと思うほど、
一冊の本のすべてを体感している。
あんな充足感は、実際に本に触れているときには得られないだろう。

「みすず」2023年8月号

という一節など、まさに“読む”ことの本質に触れるような文章でした。
この「“読む”ってなに?」という問題は、今後も沈思黙読会の大きなテーマのひとつになるでしょう。
 
さらに子どもの頃の「脳内音読」について。翻訳家仲間との、「日本語と自分が翻訳する担当言語で読むときとでは、どっちがちゃんと読めている?」や「担当言語で読むときに、それが作家の声で聞こえることってある?」というやりとりについてなど、興味深い話をたっぷりしていただきました。
 
そして斉藤さんトークの後は、参加者の皆さんとの対話の時間へ。
そちらの詳細はまた次回。


沈思黙読会の詳細はこちらをご参照ください。ゆったりと長時間、本を読むのが目的なので、ある程度広い会場とはいえ、定員があります。申し込みはお早めに。


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