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女性たちの乾杯

亡くなった母方の祖父は下戸だった。

その血を継ぐ、祖父よりも前に亡くなった母はやはりお酒を嗜むイメージがなく、350ml1缶のビールをまだ学生だった私と分け合って晩酌する程度だった。
やさしくて明るくて努力の人で病気ばかりして、なのに家族のことを一番に考える人で、誰より先に死なれるととてつもなくやっかいな人だった。
おかげで母の亡き後、うちの家族はわかりやすく機能不全に陥り、何十年と母の面影を追って生きていくこととなるのだ。


***


お酒が弱いと思っていた母とは違う一面を見たことがある。

十数年前生まれ育った我が家は社宅で、A棟からD棟まで横長のコンクリートの建物が均等に並ぶ、よくある団地の造りだった。
同じ年代の家族が多く、私はいわゆるベビーブーム世代だったため社宅内で遊ぶ友達も事欠かなかった。よってその母親たちも、はたから見れば仲の良いママ友同士であったのだと思う。

一度だけ、社宅の私有地にテントを張ってキャンプのようなことをした記憶がある。

いつもなら気配のない父親たちが集い、車でテントの周りを囲って外部から目隠しし、それぞれ簡易の椅子や机を持参して酒盛りをする。側に川や海が無いだけで、そこは本当にキャンプ場のようだった。

ああ、ここにはこんなに家族がいたのだと実感したのを覚えている。
彼らが勤める会社の社宅だというのに男はいつも不在がちで、普段他人行儀に見えていた父親たちが仲良さげに酒を酌み交わす光景は、子供の目から見てもどことなくシュールだった。

敷地面積の巨大な会社だったので同じエリアにたくさんの工場や建物が林立し、課が違えば決して顔を合わすことのない職場だったのだと思う。そんな彼らがどのように話をまとめ、どのようにしてこの疑似キャンプが開催されたのか。今から思えば謎である。

それを決行したのは母たちであったのではないか。

今ならそう思う。

テントの中ではしゃぐ子供たち。
野外で宴会を繰り広げる男たち。
ふと、母親たちはどこにいたのだろうと思う。
会場をセッティングし、男たちに酒やつまみをあてがった母親たちの姿がどこにも無い。


ここから先は記憶が定かでなく断片的だけれど、たしか私より3つ年上だったTちゃんの、A棟の家にみな集まっていたのではなかったか。

子供たちは暗い夜の階段を上り、3階にあるTちゃんちの重たい扉を開ける。いつもは玄関にきれいに揃えられたサンダルが、その日は無造作にいくつも脱ぎ捨てられている。
すぐ傍のキッチンに入ると、小さなダイニングテーブルの上にずらっと並んだビールの中瓶が目に飛び込んできた。そしてそれを囲むのは男たちではない。

こちらを振り返ったのはいつもとは違う、どこか高揚した女の顔だった。

毎日妻や母として生き続けている女たちが、きらきらした笑顔でビールを注ぎあい、美味しそうに飲みほしている。
その光景はどこか後光が差しスローモーションがかっていて、果たして私の母がそこにいたのか、TちゃんやMちゃんやNくんのおばちゃんがいたのか、はっきりと思い出せない。
けれどふと目を閉じると、キッチンから漏れ出る明るい光と、ひときわ目立つ母独特の大きな笑い声が脳裏をよぎる。

子供たちはなぜかテントに戻らず、隣の和室で眠る。
解放された女性たちの高らかな声が重なり合い、まるでそれは子守歌のように、穏やかな眠りが私たちを誘う。


***


あれから何年たったのだろう。
私は祖父方の血を全く受け継がず、休日には昼間からビールをかっくらう、まあまあな飲兵衛になってしまっていた。
今現在はコロナの影響で飲みに出歩くこともできない。

部屋で缶ビールを片手に、あの時代に思いを馳せる。

私が引っ越して10年後くらいに社宅は取り壊され、その場所に、今ではマンションが高々とそびえ立っている。私たちが日々を過ごした小さな足跡はどこにも残っていない。当時の辛かったことも悲しかったことも、楽しかったことも丸ごと地下に埋もれてしまったような、何だかよくわからない感傷を抱く。

社宅という場所は家族の在りようが嫌でも露呈してしまう場所だった。
そしてどの家族も、何かしら問題を抱えていた。
子供ながらにそこに足を踏み入れてもいいのか、みんなためらいながら接していた。それはいつからか閉塞感というのだろうか、建物自体が異様な圧迫感をもたらしていた。
みんなどこか解放されたがっていた。
親も、子供も。
目に見えない巨大なコミュニティに押しつぶされないように。

あの時Tちゃんちで見た光景は、大げさでもなくその抑圧された何かを打ち破ろうとする女性たちの叫びだったのだろうか。
たかが一時の酒盛りであったのだけれど、私にはあれがとてつもなく健やかで自由で生き生きとした姿でよみがえり、頬を赤らめた女性たちの力強い乾杯が、今でも心に残っている。




#また乾杯しよう

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