見出し画像

チップ

コロナの影響で、身の回りの環境も微々たるものだけれど変化している。
最近では40年近くともに暮らしたアップライトピアノを手放した。

小学生から中学の終わりまでの多感な時期にお世話になり、いつもそこにあった黒々として重量感があってやたら存在感のあるその人は、今では布ですっぽり覆われ、部屋でやたら場所をとるお荷物になってしまった。リモートワークの昨今。机変わりとして使われたピアノの悲劇たるや。
当時は習い事全盛期。
一家に一台必ずといっていいほどピアノはあった。決して裕福ではない我が家でも、おそらくはそのような時代の影響も受けざるを得なかったのだろう。ランドセルを背負って嬉々として帰ってきたとき、いつもの我が家に異彩を放ち、黒光りした大きな物体が視界に飛び込んできたその瞬間が今でも蘇ってくる。

ピアノは個人の先生に習っていた。
今でもそうなのだけれど、私は先生や会社の上司といった上の立場の人と上手くいかない。ずっと気づかなかったけれどここにきて薄々感じているのは、子供のころから私は可愛げのない人間だったのだろう。素直でなくどこか斜に構えていて従うことは媚びることだとどこかで思っている。
ずいぶんと大人になった今でもそうなのだろう。悪く言えばネコを被る、ことが社会の常識であることを十分わかっていてもうまくいっていないということは、どこかで己をさらけ出し、そんな自分をわかってほしいと甘えているのだろう。そもそも私はコンプレックスの塊でひねくれていて性格が悪い。そのような人間に指図する側の人間は、そりゃイライラするだろうと思う。

結局当時もピアノの先生とは信頼関係を築けず、それなりに期待をかけられてはいたけれども、毎日練習もせず、やる気を一向に見せない己に対して今でも思い出すのは、いつも般若のように恐ろしいお面をかぶった先生の顔だった。
というわけで、高校受験を機に晴れてピアノから解放された瞬間から今現在、自由に弾ける大人のピアノを再び習いつつ、それでも長年調律もせずほったらかしていたピアノは音を失い、響きを失っていた。よって蓋を開けて鍵盤に触ることも、もはや皆無になっていた。

なんとなく、手放すのなら今だと感じていた。
仕事用の机を置くにもこの巨大なピアノがあれば手狭になる。何より例え弾けてもマンションゆえ弱音ペダルに固定されたまま音も出せず、時間も気にしなければいけないくらいならいっそのこと電子ピアノに買い替えようか、と、ここ10年くらい思っていたことが現実味を帯びてきた。コロナによって外出も自粛される中、この家で思い切りピアノが弾ける。なんだか久しぶりにわくわくしていた。

しかしそこからが大変で、もはや汚部屋が日常であったこの部屋に人を招き入れ、長年手入れもしてないピアノやその背後、下にあるであろう数十年積もりに積もった埃のことを考えるだけで恐怖に襲われる。しかし今。今しかないのである。環境も、己の決意も。
とゆーことで掃除はした。掃除は二週間したのだが、効果があったのかは謎なくらい汚れや埃というものは一長一短では取り除けないということも学んだ。それはマンションの築年数の問題ではなく、間違いなく日々の積み重ねなのだ。

そしていよいよ当日。
結果的に2時間かかって狭い狭い我が部屋から旅立っていったピアノは、何度も起こされ倒され、台車に乗って移動しては元に戻され、上の蓋も外され、最終的には二人の若者に抱き抱えられて90度曲がり切らねばならない玄関から漸く、本当にようやく外へ出ることができたのだ。
「どうやって入れたんですかね?」と業者さんにもメーカーさんにも尋ねられ、さぁ?の繰り返しで見守るしかない私は、息も絶え絶えの男子に心から詫びいりたい気持ちだった。

*******

『パリ左岸のピアノ工房』/T.Eカーハート(新潮クレスト・ブックス)

私のように幼いころピアノをかじり、それが甘い記憶ではなくどこかほろ苦い記憶になっている人がたくさんいることも知った。けれど鍵盤に初めて触れた時の感触。音色。憧れのショパンを奏でた時の感動はみな同じだろうと思う。
ピアノが好きで、でもあきらめざるを得なくて、大人になった今再びピアノと向き合える現状になった人に、是非読んでほしい一冊。
主人公もその一人であり、異国人をあまり受け入れないパリのピアノ工房に通い詰めて念願の、いやそれ以上のピアノをゲットすることに成功する。
一見偏屈な工房の主人とのやりとりもピアノ好きにはたまらない。ピアノの歴史、複雑かつ芸術的な構造、一つ一つのピアノが辿る運命も垣間見え、ピアノを愛する人と人とのつながりが静かな感動を呼ぶ。

主人公が運命のように出会ったベビーグランドピアノを、パリの一室に招きいれる場面。配達人の屈強な男がピアノを背中にかついで階段を上り、よろめく姿を、主人公は生涯忘れることはないだろう・・・と恐怖とともにしみじみ回顧する。

我が家は組み立て型電子ピアノだったけれども、アップライトの搬出に関してはこの主人公同様、業者さんにチップを渡してもよかったのではなかろうか?(小説では、事前に主人からチップを渡すよう頼まれていたのだけれど)と心底思った。
搬入業者先輩の細かい指示にひたすら気持ち良い返事で応対し、ピアノに立ち向かう恰幅のよい後輩くん。汗だくのこの青年たちに心からお疲れ様でした、と言いたい気持ちでいっぱいなのでした。



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?