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読書ノート 「『大菩薩峠』を読む」 今村仁司

 誤読の誤読。とめどない誤読。などと車に乗りながら考えていた。結局、その作者の本意と同様の読みなどできるわけがなく、はじめから誤読されることはわかりきっている。しかし現実はその想定された誤読よりもさらに異なる読みがなされ、その読みという行為自体も、想定された読み方でない可能性が高い。
 誤読は果てしなく続く、迷宮のように。それを表す謂い方はなにかと考えていて、「とめどない誤読」に行き着いた。

 この「『大菩薩峠』を読む」も、今村仁司の誤読の痕跡である。しかし、私はその今村仁司がどう「大菩薩峠」を読んだかが知りたくてこの本を読む。決して、「大菩薩峠」そのものを理解したいわけではない。このテキストを通じて、今村仁司がどう考え、感じたか、それが知りたいのである。しかしそこにも、今度は私の「誤読」が入り込む。だから「とめどない誤読」なのである。


  • 漂泊の旅人

  • 松尾芭蕉「船の上に生涯を浮かべ、馬の口を取らえて老いを迎えるものは、日々旅にして、旅を住処とする。古人も多く旅に死せる、あり。予もいずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂泊の思いやまず(奥の細道・少し改訳)」

  • 『峠』の主要人物は、いわば永遠の旅人として大地を放浪していく。彼らは永遠の亡命者である。起源と目的のある旅を、精神においては自己形成と自己意識の確立と呼ぶなら、オデッセイアやマイスターはヘーゲルの『精神現象学』の円環的旅になる。しかし『峠』の旅は、これらいずれでもない。人物たちは、二度と帰らぬ死出の旅をするのである。

  • 人間の漂白性、境界線を超えるたびの変容、顔の変化。転身物語、象徴としての峠 山の上と下、その中間地点としての位置を峠。

  • 峠は人生の象徴 交換の場所としての峠 峠には市や神社があり、様々な交換がなされる。その交換は顔を合わせない、奇妙な交換であった。

  • はま、うみ、さかい、みなと、わたし、ふね


  • 同一性は、囲い込みの思想である。『峠』の思想は、まさに『非同一なるもの」を重視し、そこから人間の別種のあり方を構想する方向に向かっている。ホルクハイマーやアドルノらのフランクフルト学派が行った、西欧哲学の同一性中心批判の試みと軌を一にする。

  • 「非同一なもの」は、同一性図式が厳格に築きあげる閉鎖的輪郭を突破するものである。閉鎖空間がつくる境界線を越え出ていくことが、漂白の旅人や峠の旅人のメタファーで表現される。

  • 漂白や遍歴を西洋語で言えば「ノマド」「ノマディズム」。ドゥルーズ・ガタリの『アンチ・オイディプス』などの思想をすでに介山(作者・中里介山)によって先取りされてしまっている。


  • 固定的体系があるのではなく、つねに開いた生活がある。ところが、イデオロギーは閉鎖空間を好み、閉じた体系をつねに選択する。無数の方向に開いた生活の可能な道を塞ぎ止め、ただひとつの等質的で閉鎖的な生活空間のなかに人々を追い込んでいくのが、つねに現存秩序を弁明し正当化するイデオロギーである。人々の自前の「思想」と言われるものは、たいていは、外から注入される閉鎖空間のイデオロギーである。

  • 我々は、特定の社会の中で生きている限り、いつもこうした「正当化のイデオロギー」を空気のように吸って生きている。人々が生きている社会とは、個人にとっては大文字の「他者」であり、その大きい他者の「考え」がいつのまにか個々人の無意識の体質にまでなっている。自己の「独自の思想」なるものが、実は大きい他者(社会、共同体)のイデオロギーであると自覚する契機は、個人が何らかのきっかけで、閉鎖空間の境界線に立ち、さらにはその境界線を越え出てみるときに、はじめて得られる。

  • この境界線越えの漂白の旅は、他方では、おのれの内部にあって社会のイデオロギーと呼応する神話的想像力に対面し、その魔力から解放される旅でもなくてはならない。神話的想像力は、人々を群衆に作り変える群衆なくして閉鎖空間はできない。現存の秩序(思想の、政治の秩序など)を正当化する種々のイデオロギーは、個々人の個別的差異、その非同一性を削り取り、そうして彼らを等質的な存在に転換して、どこをとっても金太郎飴のような人間群を作る。こうした群衆的存在から抜け出す旅が、漂白の旅であった。そしてその旅は、おのれの可能性を発見する「目覚め」の旅でもある。

  • 閉じた生活が真実でないのは、本来的に開放的な人間の生を無理に閉じようとする欲望をひそかに働かせるからである。閉じた体系は、現実でも思想でも、外部に無限に開く穴を制度ないしは観念で封鎖する。真実のあり方である「開放性」の穴埋めをするとき、思想は真実の生から乖離する。批判的認識があるとすれば、その批判のめざすところは、閉じられ、穴埋めされた開口部を、それを覆うベールを剥ぎ取ることで再び見出すことである。目覚めとはそういうことだ。それはいささかも神秘的な行為ではなく、実に理性的な行為である。

  • こうした思想は、現にある思想体系や社会制度に地滑りを起こすことである。地滑りとか「ずらし」というのは、位置の移動、配置換えの理性的な操作であり、西洋語ではde-placementをあてるのが適当である。こうした場所を移動させる作業は、現にある位置や場所から逃れることであり、消された境界線を再発見し、境界線を越え出ていくことである。それは戻らぬ旅だ。漂白の旅人とはそうした人間の生の真実を語るものである。そしてそれこそが小説「大菩薩峠」の人間論である。それは、文学的形象をもって把握された人間に関する認識である。

  • 罪が罰せられずに延期されるということは、罪が永続することを意味する。これを別の形で言えば、恥辱が永遠に生き残るのである。

  • 他人の恥を自分の恥と感じる生き方。この生き方に照らされるとき、恥辱の自覚的居直りであれ恥辱の無自覚による自己正当化であれ、そうした行動をする人間たちは、ただ無明の闇をさすらう存在でしかないことが一層はっきりとする。

  • 『冷静なる愚者』は他人に恥辱を自覚させ、敵意の棘を抜き去る。『冷静なる愚者』だけが、罪と罰の永遠の循環、恥辱のきりのない存続を切り裂いて、別の世界への可能性へと見を開くことができる。彼らを通して、『峠』もまた、開かれた物語になる。

  • 『古いものへ開く』なつかしさ

  • 「ある意味では未熟であり同時にありふれた、慰めを与えると同時に愚かな存在である彼らの振る舞いこそ」「なつかしい喜びと希望をかきたてる」

  • 弁信は、いわば「先駆的覚悟性」をもって、自己の「本来性」に目覚めてしまっている。人生を旅と心得ていること、そしてその旅の人生が「浄土」であると自覚すること、それが弁信法師の覚悟なのである。

  • すでに何度も指摘したように、『冷静なる愚者』たちのみが、人間の悪業の泥沼に咲く蓮華の花であり、そこにかすかな希望がある。


 ほんのりと精神分析学的な(ラカン的な)言い回しもある今村節がなんともいい。素晴らしい人を早くに亡くしてしまった(65歳に胃癌で亡くなっています)。長生きすればもっと刺激的で為になる話が聞けただろうに…

 テクノロジーとイデオロギー。
 開放系のテクノロジーを閉鎖的なイデオロギーが自分の檻に閉じ込めようとするイメージ。
 持たざるものの強さ。持たざるものが力を持つためのテクノロジー。それを亡き者にしようとする閉じられた思想やイデオロギー。
 不特定多数の選択を、瞬間瞬間でまとめることができるIOT(Internet of Things)が、今までの歴史上に存在しただろうか。


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