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読書ノート 加藤典洋の4冊



「もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために」 加藤典洋   

 亡くなる二年前に出した短い寄稿集。
「もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために」と言う問いかけに反応する人がどれくらいいるのだろう。天皇を重視する内向きの秩序維持思想を「尊皇攘夷」というなら、これはやってこない。

 この文章が書かれた当時、まだ平成・令和の天皇交代はなっておらず、トランプもまだ旺盛な影響力を発揮していた。時代は変わる。すでに前提条件は変更された。ただ偶然かもしれないが、東京オリンピックが中止になるかもしれないと綴ったのは、前回一九四〇年の東京オリンピックが世界大戦に向かう状況から中止されたことから想起されたものだが、加藤が思い描いていた原因とは違うが、そうなること(実際は延期だが)になったのは、慧眼であると言えなくもない。

 加藤の指摘で鋭いと感じたのは、「明治の浅さ」であろうか。
「なぜ、大正デモクラシーのあとに皇国思想の席巻、軍国主義による経済的苦境の打開ということが起こらなければならなかったか、その理由は何か、の探求」がなされていないという指摘である。その原因は、遡ると明治維新にあり、尊皇攘夷を尊皇開国へと転向し、「攘夷」をなかったコトにした、後ろめたさにあるという。

 後ろめたさはその後、太平洋戦争敗戦後の、戦争責任を厳しく突き詰めず、そのことをまるであたかも無かったことのように振る舞いながら、踵を返したように経済大国へと突き進む姿にも見て取れる。この、江戸後期から現在に至るまで脈々と続く日本人の「忘れっぽさ」「立ち回りの速さ」は、様々な負の側面を顕現させてきた。「鶏頭」と言ってもいいかもしれない。一歩歩いたら、前の餌の在り処を忘れる鶏のようなものである。この特性は、日本人の宗教観や風習と絡めて説明できないだろうか

    

「増補 日本人の自画像」 加藤典洋

 エートノス(民族)、アントロポス(人類)、フォークロア(民俗)、フマニタス(人間学)、アントロポジー(人類学)、エスノロジー(民俗学)、カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアリズム。
知ってるようで知らないコトバたち。

 加藤は「日本人」というまとまりのイメージの形成過程を、近代から現代にかけて、地図の変遷や本居宣長、小林秀雄、吉本隆明らの日本人観などを取り上げながら批判的に検討した。ラカンの鏡像段階に導かれ、ばらばらにあったイメージを「命がけの飛躍」による「転轍」、「まとまり」から「つながり」、「内在」から「関係」へ移行することで、何が起こるのかを観察した、という感じか。
ブランコから飛び降りて振り返ると、そこには振り子のブランコが見える。


「大きな字で書くこと」 加藤典洋

 急逝した加藤典洋の最後のエッセイ集。病魔で弱っている様子が垣間見え、痛ましい。

 病気になる前に息子を事故でなくし、意気消沈していたなかで、自分の死を予見しながら、ひとはなにを思うのか。希望を書き綴ること、悲しみや後悔を書き綴ること、それら全部を含め、「大きな字で」書き残すことを加藤は最後まで行った。

 大きな字というのは、いわゆる大きな概念、「愛」や「悪」「社会」「法」「文化」などを表す。ラカンの「大文字の他者」などもそうした表現の一つといえる。「簡単に一つのものを書くというのはどういったことだったか」と原初の発動動機を蘇らせようとする加藤が残すのは、自分が生きて、発言した証、ということだろう。最後に加藤は、よく生きるために二つの思考の場を自分のなかに持つべきという。そのキャッチボールをしながら、自分を客観視し、時にはその間で思い悩み、ダイナミックさを維持すべし、と言っている、と私は捉えた。


「人類が永遠に続くのではないとしたら」 加藤典洋

福島第一原子力発電所の事故に触れて
責任とは、レスポンシビリティ(responsibility)、応答可能性ということ。応答可能な関係のなかで、応答が必要な場合、しっかりと応答する。これが責任を取る(take resuponnsibility)ことの意味。

・福島第一原発では、「責任」と「責任を取ること(弁済)」という連関の間で、一対一対応の関節がはずれている。

・9.11とビンラディン暗殺、同様の形式が真珠湾攻撃と原爆投下。法の遂行によって「弁済」されえない、許されえないと無意識のうちに感じていたアメリカ、このことが、この応報と関節のはずれをもたらした力の源泉。

・オーバーシュート(限界超過生存)期の技術革新

「私自身の考えが、(本の前半までは)一方方向的であった。ここに新たに加わっているのは、フィードバックという観点だ。わたしはこれまで、人間がどのように技術を変えるのかと考えてきたのだが、それは、同時に人間を変えるものでなければ、今やその先には進まないものだった。一言で言えば、技術革新とは、人間が技術に働きかける企てというにとどまらない。そこにも、自然史的な過程がひそんでいる。それは、技術から人間への反作用をも含んでいるのである」

・することもできるししないこともできる自由

・ゾーエ-…「生命/生存」、生き物としての人間の生、オイコス(家空間)で営まれる私的な生存と生殖のためのヒトの生

・ビオス…「生活」、人間のそれぞれの個体や集団に特有の生きる形式、ポリス(政治的空間)で営まれる公的で政治的な人間の生


人間は有限である、ということ。

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