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読書ノート 「世界をわからないものに育てること  文学・思想論集」  加藤典洋


 2016年の作品。
 この三年後に加藤は肺炎のためこの世を去る。
 幾つかの章について、個人的感想を述べる。


『「理論」と「構築」──文学理論と「可能空間」』…

 面白いかなあと思って読んでみたが、テクスト論と学校の先生方の内向き理論の話が噛み合わず、そもそもこれはどういった立ち位置の話なのかという疑問が湧き、読めません。「ナンデモアリ」の価値相対論、〈第三項〉の理論と、好みのキーワードではあるが、ううん、なんか違う、経緯ばかりの説明で、それも大事なのだろうが、本論がないがしろにされているような、じれったい感じでした。読みの「正解」だとか、「教育」だとか、文学を語るのにそれは必要なのですかね。なんだか狭い話ですぐにでも抜け出して、スタバにでも行きたくなります。しかし加藤は粘り強く、これらに言及し、自説を述べていく、その姿に感動を覚えます。イーザーやウィニコットの理論を拠出し、読書の相互主観性の意義を訴えます。もし、何かを得なければならないというなら、それは国語の先生方に、ヒロイズムを身に着けながら、授業に立ち向かっていってもらうということでしょうか。そうすれば必ず、主客や主従や教えるものと教えられるものの間を超えて多様な読みが現れるはず。



『もう一つの「0」──『永遠の0』と島尾敏雄、吉田満』…

 『島尾敏雄・吉田満「新編 特攻体験と戦後」』の解説。加藤は言う。

 「特攻体験の隔たりとは、島尾の特攻体験のなかでは結局誰一人の死者もでなかったのに対し、吉田の特攻体験のほうは、夥しい「死んだ仲間」にみちていたことである。そのため、島尾の体験は、なかなか言葉にならない個人的なものとなった。反面、吉田の体験は、誰にも受け入れられやすい分、逆にむしろ個人的な色合いが、受け取られにくいものとなった」
 
 その後二人の対談で、島尾は吉田の『戦艦大和ノ最期』を全面的に肯定する。

 このあと加藤は、百田尚樹の『永遠の0』を読み、こう述べる。

 「私は『永遠の0』を読んだ。そしてそれが、百田の言うとおり、どちらかといえば反戦的な、感動的な物語であると思った。しかしそのことは、百田が愚劣ともいえる右翼思想の持ち主であることと両立する。何の不思議もない。いまではイデオロギーというものがそういうものであるように、感動もまた、操作可能である。感動しながら、同時に自分の「感動」をそのように、操作されうるものと受けとめる審美的なリテラシーが新しい思想の流儀として求められているのである。
 私たちは左右のイデオロギーに傾かないというよりも、どのようなイデオロギーからも自由でないこと、自分がある強固なイデオロギーの持ち主であることをこそ自覚すべきだ。特攻体験などと無縁な私たちは、いつも、「感動」しているときも、イデオロギーに染まっている。左右の「イデオロギーに傾かない」、「戦争の過去を尋ねる」、「反戦的な小説に感動する」ことも、ときには立派に好戦的なイデオロギーの発現になりうる。しかも私たちを動かすものとしての感動は、他にとりかえのきかない原点的な存在である。ここに一つの困難がある。その困難と向き合うこと。それがこの本(島尾と吉田の対談)と『永遠の0』の距離なのである」

 その次の章(『一語の面白さ』)で、先の解説文を誤解して紹介されたとして、その『大波小波』コラムに対する反論が記される。
 『大波小波』コラムは加藤の意図を、百田作品を肯定し、称賛しているとして、「本心なのか」と疑義と呈する。それに向かって加藤は「事実と違います」ときっぱりと答える。そして言う。

 「ここで私が述べているのは、『永遠の0』を批判するには、これが下らない、でたらめでセンチメンタルな好戦的なエンタメだというだけでは物足りない。これが、「反戦的で感動的」に読めるとしても、それでもダメな小説だというところまでいわないと、もう本当に批判したことにならない、ということです」

 加藤は、人を感動させるために「反戦小説」仕立てのほうが都合が良ければ、「イデオロギー」抜きで、それどころか自分のものではないイデオロギーまでも持ち出して、人々を「感動させる」道具として割り切って使う種類の、新しい(?)小説家である百田について、「愚劣」と表現したのだ。そしてこうした類の作家や作品に対して、加藤は「審美的なリテラシー(読解能力)」を持たないと対処できないと、警告しているのであった。
 たしかに、『大波小波』の書き手が、加藤がそこまで思いを詰めていると読み解けなかったのにはわけがあるように思う。本文の部分的な切り取りもそうだが、加藤の表現が、穏やかで優しすぎるのだ。白痴的で暴力的な言葉に慣れた業界人からは、加藤の言葉は人を批判する時の言説には見えにくい。しかし、「それくらい分かれよ」、というのが加藤なのだろう。

 感嘆すべきは、加藤が百田に対して「愚劣」という形容が強すぎるので削除してはどうかと二度まで「編集者」に言われ、「激怒して、絶対に削除しない」と言い、「編集者」と断絶したそうだ。その文士的な振る舞いがなかなかで、胸がすくような思いである。

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