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読書ノート 「カイエ・ソバージュ」 中沢新一

 もともとは、講談社新書メチエで五冊に分かれて刊行されたもの。大学の講義をテーマ別にまとめ、中沢新一の当時の思想最前線を概観するものでした。五冊中、三冊を購入した(はず)。第一刊(『人類最古の哲学』)、第三刊(『愛と経済のロゴス』)、第五刊(『対称性人類学』)。また購入には至らなかった残りの二刊(『熊から王へ』、『神の発明』)も、読んだ記憶がある。でもどうして読んだんだろう。立ち読み?

 二〇数年前、札幌にいた時、北大附属病院に喉の疾患で入院していた頃、『対称性人類学』を精読した記憶がある。読みながら、わくわくし、興奮していた。対称性・非対称性で世界を見るその視点が衝撃的であり新鮮であり、開眼する思いであった。喉は原因不明の腫れが続き不安であったのだが、病院のベットで落ち込むことなく元気でいれたのも、この本のおかげによるところが大きい。

 今回読み直すのは、この五巻が一冊にまとめられたもの。まるで辞典のように分厚く、机で自立します。合冊にあたり新たに書き足された序文から、抜き出し参照していきます。


 この一連の講義によって、私たちは科学革命という「第二次形而上学革命」(これはウエルベックという小説家が『素粒子』のなかで使っている言い方である)以後の世界を生きている。そしてその世界がようやく潜在的可能性の全貌を、遠からぬ将来あらわに示すであろうというさまざまな兆候が、現れはじめている。
この第二次の「形而上学革命」は奇妙な性格を持っていることを、レヴィ=ストロースがすでに明らかにしている。近現代の科学が駆使してきた思考の道具一式は、およそ一万年前にはじまった新石器革命の時期に、私たちもその子孫であるホモサピエンス・サピエンス(現生人類)の獲得した知的能力の中に、すでにすべてが用意されていたのである。技術や社会制度、神話や儀礼を通して表現されたその能力と根本的に異なるものを、私たちの科学はかつて一度も示したことがない。量子力学と分子生物学でさえ、三万年前のまだ旧石器を用いていた頃のホモサピエンス・サピエンスの脳に起こった革命的な変化が可能にした、その直接的な思考の果実なのである。

「序文」

 ここでいう獲得した知的能力とは、チョムスキーの言う「併合」であろうか。

 第一次の「形而上学革命」である一神教の成立がもたらした宗教は、新石器革命的な文明の大規模な否定や抑圧の上に成立している。その抑圧された「野生の思考」と呼ばれる思考の能力が、第二次の「形而上学革命」を通して、装いも根拠も新たに「科学」として復活をとげたのである。現代生活は、三万数千年前ヨーロッパの北方に広がる巨大な氷河群を前にして、サバイバルのために脳内ニューロンの接合様式を変化させることに成功した人類の獲得した潜在能力を、全面的に展開することとして出来上がってきたが、その革命の成果がほぼ出尽くしてしまうのではないか、という予感の広がりはじめているのが、今なのである。

「序文」

 「今」かどうかは中沢新一の感ずるところだろう。中沢は人類がまだ進化すると思っている。

 私たちはこういう過渡的な時期を生きている。第三次の「形而上学革命」はまだ先のことだ。そういう時代を生きる知性に与えられた課題は、洗礼者ヨハネのように、魂におけるヨルダン川のほとりに立って、来るべきその革命がどのような構造を持つことになるかを、できるだけ正確に見通しておくことであろう。宗教は科学(野生の思考と呼ばれる科学)を抑圧することによって、人類の新しい地平を開いた。その宗教を否定して、、今日の科学は地上のヘゲモニーを獲得した。そうなると、第三次の「形而上学革命」がどのような構造を持つものになるか、およその見通しを持つことができる。それは、今日の科学に限界づけをもたらしている諸条件(生命科学の機械的凡庸さ、分子生物学と熱力学の結合の不十分さ、量子力学的世界観の生活と思考の全領野への広がりを阻んでいる西欧型資本主義の影響力など)を否定して、一神教の開いた地平をまだ未知に属する新しい思考によって変革することによってもたらされるであろう。

「序文」

 予言的なコメント。「宗教は(野生の)科学を抑圧することによって、人類の新しい地平を開いた」と言い切ってしまうところが中沢の潔さですね。「量子力学的世界観の生活と思考の全領野への広がり」がどのように具体化されるかというところで、「レンマ学」が補助線として登場するのでしょう。

 経済学の土台は交換におかれているが、この交換は贈与の内部から、それを食い破って出現してくるものである。しかしそうやって出現してきたあとも、交換は贈与との密接なつながりを失わないばかりか、贈与の原理なしには自分を存続させることすらできない。幼児期に形成される無意識が、その後の大人の精神生活の表面からは否定されているように見えて、実際には幼児的無意識にまったく支えられていない意識活動などというものは存在しえないのと、これまたよく似な事情である。
 贈与を立脚点にすえて、経済学と社会学を書き直すという野心を、一九二〇年代のマルセル・モースがはじめて抱いた。彼が書いた『贈与論』は、経済も政治も倫理も美や善の意識をも包み込む「全体的社会事実」を深層で突き動かしているのが、合理的な経済活動を可能にする交換の原理ではなく、「たましい」の活動を巻き込みながら進められていく贈与の原理のうちにあることを発見することによって、この野心の実現にむけて、巨大な一歩を踏み出した。しかし、モースは最終的にそれに失敗してしまう。モースは贈与に対する返礼(反対給付)が義務とされることによって、贈与の環(サイクル)が実現されると考えたのだが、そのおかげで、贈与と交換の原理上の区別がなくなってしまったからである。

「序文」

 たしかに、返礼義務のある贈与と交換は意味が同じではないかといった疑念が浮かびます。

 ところが私たちは、贈与の極限に純粋贈与という異質な原理が出現することを、見出したのである。いっさいの見返りを求めない贈与、記憶を持たない贈与、経済的サイクルとしての贈与の環(サイクル)を逸脱していく贈与、それを純粋贈与という創造的概念に鍛え上げることによって、私たちはモースが座礁した地点を跳躍台にして、彼の野心に向かって、新しいジャンプを試みたのである。
 すると興味深いことに、経済学で言われる「価値の増殖」にたいして、一貫した理解を示すことができるようになった。そればかりか、贈与を立脚点にすえることで見えてくる経済活動のトポロジーと、精神分析学の示す心のトポロジーとが、基本的に同型であることも明らかになってくるのである。いわばモースとマルクスとラカンをひとつに結ぶ試みとも言えるこの探求をとおして私は、サン・シモン的なアソシエーション社会主義の信奉者であったモースと同じように、グローバル資本主義の彼方に出現すべき人類の社会形態についての、ひとつの明確な展望を手に入れたいと願ったのである。
 それを実現していくためには、どうしてもモースの思考にマルクスと(ラカンによる)フロイトの思考を突入させる必要があった。社会学的思考に欠けているものがあるとすると、それはモノ(Ding)である。モノは贈与や交換や権力や知の円滑な流れを作り出すすべての「環」に、いわば垂直方向から侵入して、サイクルを断ち切ったり、逸脱させたり、途方にくれさせたりすることで、「環」の外に別の実在が働いていることを、人々に実感させる力をもっているのである。

「序文」

 ラカンの言う「現実界」が否応なく現前化してくるんですよね。実際は。

 モースの贈与論に、このモノの次元に属する実在を導き入れる必要を力説したのは、「モース著作集への序文」を書いたレヴィ=ストロースだった。彼はそれを「浮遊するシニフィアン」と呼んで、体系の内部を流通している記号や価値と区別しようとした。この「浮遊するシニフィアン」という概念こそ、マルクスが資本主義の生命力である余剰価値の発生の現場で取り押さえようとした、「資本の増殖」の秘密の核心に触れるものであり、またそれは精神分析学が「悦楽」の発生の問題としてとりだしてきたものと、同じ構造をもっていることに、私は気づいた。二十世紀後半の旺盛な知的活動が、それぞれの領域で見出してきたこれら「モノの侵入によって変化をとげた概念」を、ひとつの全体性のうちにシンセサイズすることによって、私は今世紀の知が発達させるべき問題の領域の、ごく大雑把な見取り図を描き出そうと試みた。

「序文」

 このあたりのことを、柄谷行人と対談してほしいところです。「交換様式D」が外から現れるという予測と、この「浮遊するシニフィアン」には似たところがあり、この構造を分析することで来るべきDを精密に推し測ることもできるのでは。阿頼耶識と精霊たちが戯れる妄想が広がります。

 中沢は「もちろんこんなに野心的な構想を、大学の学部学生に向かってしゃべるのはあまりに申し訳ないと思った」ので、実際はここまでは話さなかったそうです。本文を読みましょう。

 で、無論、肝は第五章『対称性人類学』です。中沢の真骨頂、大きな視座を設定されています。ここでは詳しく説明しませんが、皆さん、単著でもいいので読むべし。思考は進化します。



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