#0091【宇多天皇と阿衡の紛議(日本、9世紀後半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は月初の日本通史シリーズです。
【0078:承和の変と応天門の変】からの続きです。

866年に起きた応天門の変を経て、藤原良房が正式に摂政に就任します。その地位は872年に養子の藤原基経へと継承されました。

884年に基経らは、奇行が多く行状が定まらなかった陽成天皇の皇位を廃します。当時陽成天皇は17歳でした。その後、55歳の光孝天皇が即位します。陽成天皇の曽祖父にあたる仁明天皇の息子です。

光孝天皇は、まさか自分が皇位を継ぐことになるとは思っていなかったことと、当時としては既に高齢であったことから、成人天皇でありながら全ての政務を基経に任せようとします。

当時、太政大臣という人臣最高の地位にあった基経に対して「万政をつかさどり、天皇に奏上すること、天皇が命令することは、必ずまず基経に諮問せよ」という命令を下しました。

この命令文には「関白」という文言は出てきませんが、これをもって事実上の関白就任と捉えられています。

887年に光孝天皇の死期が迫ると、急遽、既に臣籍降下していた第七皇子の源定省(みなもとのさだみ)の源姓を削除して、定省親王として皇籍復帰させました。皇太子となった親王は、同年に光孝天皇が死去すると宇多天皇として即位します。

臣籍にあった人物で天皇に即位した唯一の例です。但し、生まれた時は皇族であり、3年間のみ臣籍にありました。

この即位に対して反発もあり、無理やり譲位させられた陽成上皇は「今の天皇は自分の家来だったではないか」とそしる言葉が残されています。

また、光孝天皇選定時に左大臣で仁明天皇の異母弟である源融(みなもとのとおる)は「皇胤に近いなら私も候補じゃないかな」と発言し、基経から「過去に臣籍から即位した人はいません」とたしなめられています。

源融にとっても宇多天皇の即位は面白くないものであったと思います。さらに宇多天皇の母は藤原氏ではなかったことから、基経との相性も悪かったのです。

宇多天皇が出した命令書には「案件は全て基経に『関白(あずかり、もうし)』してから後に天皇に奏上すること、全て従来通りにせよ」と書かれました。慣例によってこの命令書を形式上辞退した基経に対して、二度目に出された命令書の中に「関白は阿衡(あこう)に相当する重い任である、ぜひ受諾するように」と記載されました。

この「阿衡」は実態のない名誉職であると反発した基経とその周辺は業務をボイコットします。政務の一切がストップする事態となりました。

宇多天皇は自身の政治的基盤の弱さを実感せざるを得ず、最終的には上述の命令書を起草した自分の側近たちを処分します。

一方、この騒動の過程で「これ以上、政務を停滞させることは藤原氏にとってもよくないことです」と基経に意見書を送った菅原道真が注目されるようになります。

歯に衣着せぬ物言いをした道真は、宇多天皇と藤原基経、双方から信頼されることとなり、以降高級官僚・政治家としての道を歩み始めます。

以上、本日の歴史小話でした!

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