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#0087【上杉謙信(日本、16世紀中盤)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週最後は越後(新潟県)の龍と呼ばれる上杉謙信を取り上げます。

上杉謙信は武田信玄のライバルとして有名であり、戦国最強の一人です。信玄は三方が原の戦いで徳川家康を撃破したのち、病死してしまいました。織田信長とは直接対決をしていません。
一方、謙信は信長軍と手取川の戦いで激突し圧勝しました。また謙信は、信玄と違って戦での手酷い敗北がありませんでした。

しかし、彼は義に厚すぎるがゆえに自縄自縛に陥ってしまうことがありました。
戦術家としては圧倒的な才能がありながらも戦略的には腰が定まらず、村上義清のために長野県北部の川中島で武田信玄との戦いを繰り返し、上杉憲政のために関東平野で北条氏との戦いを繰り返し、更には越中(富山県)の一向一揆とも妥協なき戦いを進めます。

戦えば必勝の軍神ともいえる力を持っていましたが、雪国を本拠としていたため、軍事行動が起こせる時間が限られていたこともあり、天下への道は遠かったです。

信玄は黒川金山という金鉱を持っており、その経済力が軍事力を支えていました。謙信も佐渡金山を有しており、同様に強大な経済力を有していました。
武田家は信玄の元で統率が取れていましたが、上杉家は謙信を盟主と仰ぎつつも統率が取り切れず、嫌気が指した謙信が「もう出家する」と飛び出して家臣が慌てて止めにいき「これからは言うことをちゃんと聞きます」と誓約書を提出させるなどゴダゴダしていました。

謙信の在世中は、彼の圧倒的な軍事的才能もあり一つの組織として纏まりました。信長軍を手取川の戦いで破った謙信は、信長の本国へ攻め込もうとしますが脳溢血で倒れ、そのまま死んでしまいます。

行軍中も馬上で酒を飲むほどの愛飲家で、肴には塩を好んでいました。現代医療の観点からもオススメできる生活習慣ではありませんでした。往年49歳と伝わっています。

塩といえば、ライバル武田信玄が、駿河(静岡県東部)の今川氏と国交断絶したため山国の甲斐・信濃に塩が入って来なくなったときに謙信から信玄に塩を送っています。「敵に塩を送る」の逸話ですね。トコトン義に厚い男でした。

さて、謙信は生涯妻を娶らず実子がいなかったため、一族から「景勝(かげかつ)」を、同盟を結んだ関東の北条氏から「景虎(かげとら)」を養子にします。
謙信が突然死したため、明確な後継者が定まっていませんでした。

景勝派と景虎派に分裂した上杉家の内乱を「御舘の乱」といいます。

血縁関係で考えたら景勝派が有利でした。一方、北条氏出身の景虎派が勝利すれば、武田家当主の勝頼(信玄の子)の妻も北条氏出身でしたので、上杉・武田・北条の大連合が組めることもあり、当初は景虎派が勝つだろうと目されていましたが、武田家が景勝派に転んだこともあって最終的には景勝派が勝利しました。

これが、戦国の名門武田家の運命に与えた影響は、また別途。

以上、今週の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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