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#0144【北条泰時と御成敗式目(日本史通史シリーズ)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

承久の変の後、京都以西にも鎌倉幕府の支配力が高まりました。
特に占領行政を預かった北条泰時は、強硬姿勢を振舞うだけでなく、道理にかなった政治に努めました。

公家社会とも交流を大切にし、文化・教養面でも鎌倉幕府最高権力者の長男として申し分のないものとなっていきました。

結果的に見ると、承久の変によって幕府の支配力が広がっただけでなく、その長男が見識・見分を広げるための留学を果たすことにもなりました。

京都での生活に慣れた1224年に北条義時が亡くなってしまいます。

泰時は鎌倉へと戻り執権の地位へと就任します。
祖父北条時政(政子の父、頼朝の舅)が初代執権であったため、泰時で三代目となります。

この頃になると、北条家は他の御家人(有力武士)よりも一段と高い地位・権威を有するようになりますが、まだ絶対権力を握ったわけではありません。

ここでも泰時はいたずらに武力に訴えるのではなく、道理に基づいて政治を行っていきます。

この泰時が大事にした「道理」とは一体何でしょうか。それは法律や法令よりも優先される日本社会に根付く考えです。

物事が「道理にかなう」や「どうりで」といった表現によく表れています。

日本は裁判所で争うことを嫌がります。特に民事訴訟では裁判官自らが法律による判断よりも双方による「和解」を勧めます。

何でも訴訟で決めようとする傾向の強い欧米社会とは違う論理が流れていることは間違いありません。

この一つが「道理にかなう」ことなのです。

日本人は法律による白黒よりも、感情や納得感を優先します。もし、納得感を得られない判決であれば、法律の方が間違っていると感じます。

たとえば、三方一両損という話があります。

ある人が三両(両は昔のお金の単位、三両はそれなりの大金です。)を落としました。それを見た人が拾ってその人に渡そうとすると、その人は受け取りません。もう落としてしまったのだから拾ったあなたにお礼として差し上げると意地を張ります。

埒があがず、奉行所(裁判所)に持ち込まれると裁判官は正直な二人の態度に歓心して、二人に二両ずつ持たします。キョトンとする二人に裁判官は「落とし主は三両が二両に、拾い主も三両が二両に、裁判官の私は一両を出した。皆が一両ずつ損をしたな」とこれにて一件落着。というお話です。

これは江戸時代の名裁判官と言われた大岡忠相(ただすけ)の逸話として知られていますが、実話ではなく元ネタに近い話があるのが、実はこの泰時なのです。

鎌倉時代は、武士と公家、さらに寺社に至るまで土地所有権に関する争いがひっきりなしに起きていました。

それを裁くために泰時は「御成敗式目」という法律を作成しました。そして、本人も裁判官として、数えきれない程の訴訟を取り扱いました。

彼は法律を曲げた判決は下しませんでしたが、それでもポケットマネーやその他の処遇で、救いの手を差し伸べています。

温情ある占領行政の経験が鎌倉に帰った後にも生き続けたのです。

彼の政治は、武士からも公家からも歓心され、これにより北条家は武士の中でも有力的な地位をより強固のものとしました。

以上、今週の歴史小話でした!日本通史シリーズ続きは来年です。

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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