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#0218【新旧両大陸に挟まれて(大英帝国の動揺、イギリス)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

七つの海に繰り出していったイギリスにとってライバル関係にあったのはフランスでした。

(前回:No.217【動乱からの独自路線(大英帝国の萌芽)】)

インド権益をかけて英仏は大きく対立し、最終的にプラッシーの戦いを経てイギリスがインド権益の独占へと進みます。

北米大陸でも英仏は争いを繰り広げます。

カナダにおいては英仏伯仲。そのため、現代においてもカナダは英連邦構成国でありながら英語と並んでフランス語も公用語という形となっていきます。

北米の東海岸にはイギリス植民地が作られていき、先行していたスペイン・ポルトガルを押しのけて開発を進めていきます。

植民地は栄え始めましたが、イギリス本国はフランスとの対立激化により、国家財政が厳しくなってきました。

そこでイギリス本国は、潤っていたアメリカ植民地への課税を強める姿勢を見せました。

これに対して植民地側が反発。「代表なくして課税なし」を合言葉にイギリス本国からの課税を拒否。

紅茶に高い税金が課せられたので、アメリカ人は紅茶を飲むことをやめコーヒー党へと切り替わりました。

1776年7月4日にアメリカが独立宣言をすると、イギリスとの独立戦争に本格的に突入、フランスをはじめとした大陸ヨーロッパ側から義勇軍が加勢に駆け付けました。

散々イギリスに煮え湯を飲まされたフランス王室から、アメリカに対して、軍事的・財政的な支援がなされました。

最終的に1783年のパリ条約でアメリカの独立が各国から承認され、イギリス政府も認めました。

しかし、当時のイギリス王はこのアメリカ合衆国独立を認めず、無視を決め込みました。

アメリカ独立後、今度はフランスが財政的に厳しくなります。

フランスはイギリスとの植民地獲得競争で不利な立場となっていたこともあり、海外植民地をあまり有していませんでした。

そのため、フランスは本国の民衆への課税を強化する方針を打ち出します。これに反発してフランス革命が勃発。

フランス王室が倒れ、共和制がしかれ、ナポレオンが登場するに至って、大陸ヨーロッパをナポレオンが席巻します。

1804年にフランスの皇帝に即位したナポレオンは、大陸ヨーロッパの大半を勢力下におきます。

しかし、イギリスはナポレオンとの対決姿勢を崩さず、1815年にナポレオンを倒すと、赤道近くのアフリカ西岸の孤島セント・ヘレナ島へ流刑にします。

ナポレオンがいなくなった大陸ヨーロッパ情勢は、また混沌としていきます。

大陸ヨーロッパを差し置いてイギリスは、更なる植民地を獲得すべく、その目をアフリカ・インド・東南アジア・中国・日本へと向けていきます。

いよいよ大英帝国が絶頂期を迎えることになります。

以上、本日の歴史小話でした!

(続き:No.219【保革交代政治が前進を産む(大英帝国の絶頂)】)

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