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#0236【真心こそが(法然、鎌倉新仏教)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
前回、極楽浄土や阿弥陀如来に関する全体像について触れました。

前回:No.235【阿弥陀如来と念仏】

今回は、浄土宗の開祖である法然(ほうねん)に着目していきます。

法然の出自は、どうやら下級武士だったようです。幼い頃に土地争いで父が殺されてしまいますが、父は法然に仇討ちよりも出家して父の菩提を弔ってほしいとお願いされました。

法然は、比叡山延暦寺におもむき、出家して修行を積んでいきます。

当時の比叡山は最澄が開山してから400年近く経っており、真面目に修行をする僧侶もいる一方で権力争いに気を回す僧侶や、お布施のお金を守るための荒くれ坊主(僧兵)たち、そしてそういった坊主を相手にする商売人たちに囲まれていました。

法然は、比叡山での修行をしていく中で、阿弥陀如来こそが混沌とした世相を救ってくれるものと確信に至ります。

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」

阿弥陀さまに帰依しますというこの宣言、念仏を唱えれば誰でも救われるという教えを伝道していくことを決めます。

ちなみに、どんな人でも阿弥陀仏によって救われるという念仏を「専修念仏(せんじゅねんぶつ」と言います。

法然がこの教えを広めていくと、源平の争いが収まったばかりの京都では多くの人がこの教えに帰依しました。

貴族たちや庶民にも慕われ、多くの弟子たちを抱えるようになりました。

ところで、南無阿弥陀仏の念仏に対しては有名な論争があります。それは、何回念仏を唱えれば救われるのかというものです。

沢山唱えた方がいいのか、回数の問題ではないのか。

法然が出した答えは、どちらでも。

阿弥陀如来に、ただただ帰依するという姿勢が大切です。形式的なところが問題ではないと唱えます。

しかし、これが曲がった形で伝わってしまい、悪人の中には、南無阿弥陀仏と唱えたから死んでも怖くないと悪さをするようになり、社会問題となりました。

法然が勢力を広げていく様をみていた旧仏教の大本山の一つ比叡山延暦寺は、法然は世の中を惑わす悪僧であると京都の朝廷に訴え出ます。

京都の朝廷の中にも法然の支持者は多数いました。法然の教え自体が誤っているわけではないと理解されていましたが、世情を騒がせているということで罪とし、法然を讃岐(香川県)に島流しとしました。

そして、彼の主要な弟子たちも別の土地へとそれぞれ島流しにあってしまいました。

最後には罪を赦されて都に戻りましたが、80歳にて天寿を全う。

法然の教えは今も浄土宗として残っています。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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