#0200【栄光を駆け登る天才(ナポレオン②、フランス革命)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週はフランス革命シリーズのフィナーレとしてナポレオンを取り上げています。
(前回:No.199【天才は一日にしてならず(ナポレオン①、フランス革命)】)
ナポレオン20歳のときにフランス革命が勃発します。フランス陸軍の高級将校たちは貴族たちでしたので、彼らは次々と亡命していきました。
ナポレオンは、フランスの混乱を衝いてコルシカ島のフランス国内での地位向上や独立を進めようとします。コルシカ島に帰ると独立闘争の英雄パオリが亡命先のイギリスから帰ってきていました。
ナポレオンは感激してパオリと話をしますが、パオリはすっかり親英国派となっており、コルシカ島をフランス植民地から脱却させるためにも海の覇者イギリスと手を結ぶべきと主張します。
ナポレオンはフランスとの協力関係は破棄すべきではないとの主張でしたので、二人は相いれません。
1793年6月になるとナポレオン一家はコルシカ島からフランス・マルセイユへの亡命を余儀なくされました。
コルシカ島はイギリスの勢力下へと入ります。
亡命したナポレオン一家は貧窮にあえぎます。ニースに移っても生活は改善されません。
ナポレオンはジャコパン派として就職活動をし、南フランス・トゥーロン港をイギリス艦隊から奪回する任務を与えられます。1793年12月のことです。
高台からの砲撃により、難攻不落といわれた港を奪回したナポレオンは一躍時の人となりますが、パリではジャコパン政権がクーデターで崩壊。ナポレオンも失職の憂き目にあいます。
しかし、砲兵術の天才を時代は見捨てません。クーデター後のバラスの元でパリ司令官として活躍し、イタリア遠征に成功します。
この間、最初の妻ジョゼフィーヌと結婚。公私ともに充実します。
日の出の勢いとなったナポレオンを邪魔者扱いしたバラスはイギリス方面軍にナポレオンを任じます。
ナポレオンは、それならばとエジプト遠征を企画し実行に移しました。学術的な成果(ロゼッタストーンの発見)を上げるなどしましたが、遠征はイギリス艦隊による封じ込め作戦に苦しめられます。
その間、フランス本土はナポレオンのイタリア遠征の結果を無にするような状況が続きます。
ナポレオンはエジプトを脱出し、パリ市民の歓呼の声を浴びながら舞い戻りました。
1799年にナポレオンがクーデターを起こすと彼は第一統領の座につきます。第二次イタリア遠征を成功させると、財政改革・インフレ対策・物価対策にも成果を上げます。
そして、ナポレオン法典という革命の精神を法体系化したものを作成します。これは、日本の民法の原型ともなりました。
政治・軍事の双方で卓越した才能を発揮したナポレオンは遂に国民投票によって、皇帝の地位へと登り詰めました。
1804年、35歳の若さでした。
以上、本日の歴史小話でした!
(続き:No.201【天才の限界(ナポレオン③、フランス革命)】)
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