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#0141【お市の方と柴田勝家(日本、16世紀後半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
悲劇の美女特集の最後は日本から「お市の方」を取り上げます。

戦国時代の英雄、織田信長の妹であり絶世の美女と言われています。1547年の生まれと記録されています。

岐阜城を確保した信長は京への道を確保すべく、琵琶湖周辺の勢力との関係構築に腐心しました。南の方は敵対的態度を改めませんでしたが、北方の浅井長政(No.121で取り上げた人物)は信長との友好関係を結ぶことを決めます。信長は長政との関係を強化するために、お市の方を輿入れさせることにしました。1567年~1568年のことと言われています。

結婚した二人はその後、三女に恵まれます。茶々(のちの豊臣秀吉側室で、秀頼の母、淀殿)、初(小浜藩主の京極高次の正室)、江(徳川秀忠正室で、三代将軍家光の母)の三人です。
信長は京へ進出し、着実に天下統一へと邁進していきますが、長政は1570年に信長を裏切り、その背後から攻め入ります。

しかし、信長は窮地を脱し、長政と姉川の戦いで雌雄を決し、撃破します。敗れた長政は居城である小谷城に逃れます。

長政の同盟国が信長の前に次々と敗れ去っていき、小谷城も最期の時を迎えます。1573年のことでした。長政は、お市の方と三人の娘を信長の下へと引き渡し、切腹して果てます。

20代半ばであったお市の方には再婚話が持ち上がったこともあったようですが、信長は無理強いはせず彼女のしたいようにさせていたといいます。

しかし、時代はまた動くのです。1582年に明智光秀(No.123で掲載)の手によって信長は1582年に本能寺で果てます。明智光秀は秀吉の手によって滅ぼされますが、その後の混乱した織田家の主導権を誰がどう握るのかで争いが起きます。

ここで、お市の方は秀吉との対立が予想される織田家筆頭家老であった柴田勝家に嫁ぐことにしました。本能寺の変から僅か4か月後のことでした。

柴田勝家はそれまでに正室をもった記録が残っておらず、昔からお市の方に恋心を抱いていたとも言われています。

男女の心のことは分かりませんが、勝家と秀吉の対立は急激に頂点へと達し、1583年には賤ケ岳の合戦が勃発。大軍を擁し、外交戦略でも圧倒した秀吉が勝家を撃破しました。

やがて、勝家の居城は秀吉の大軍に囲まれます。

勝家は、結婚して一年もたたないお市の方と三人の娘を、秀吉へ送り届けようとします。

しかし、お市の方は首を縦に振らず、三人の娘だけを秀吉の下へと届け、彼女は勝家と運命を共にすることにしました。

浅井長政が敗れた時に兄の下へと戻るのとは違って、勝者の下へと屈することを彼女のプライドが許さなかったのでしょうか。あるいは勝家を愛したからなのでしょうか。もしかしたら、度重なる戦いの世、勝者と敗者が目まぐるしく変わる世の中に嫌気がさしたのかもしれません。本当のところが分かる日はこないでしょう。

茶々、初、江を秀吉の下へと送り届けた後、お市の方は自害して果てます。勝家は居城に火を放ち、燃え盛る九重の天守閣にて十字切りで切腹して死を遂げます。

女の意地、男の矜持。

二人の辞世は
お市の方「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公(ほとどきす)かな」
柴田勝家「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公(やまほととぎす)」
と伝えられています。

以上、今週の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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