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#0160【ペンの力で民衆を動かす(マラー、フランス革命)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

今週はフランス革命シリーズです。
これまで革命初期について取り扱ってきました。

過去の一覧は以下の通りです。

No.0070【フランス革命の勃発】
No.0071【ミラボー】
No.0072【ラ・ファイエット】
No.0124【ロラン夫人_1】
No.0125【ロラン夫人_2】
No.0126【ロラン夫人_3】

今回のマラーで7回目となりますが、まだまだフランス革命の序盤戦です。

マラーは1743年、スイスの中流家庭に6人兄弟の長男として生まれます。。

脆弱ながらも勉強好きな少年だったと伝わっており、ヨーロッパ各地を遊学した後、ロンドンで開業医となりました。

その後、1777年にフランスに招聘され1783年まで当時の王様ルイ16世(マリーアントワネットの夫)の弟アルトワ伯(後のシャルル10世)のもとで働いていました。

ルイ16世は長男でしたが、おっとりした性格であり覇気に乏しかったと伝わっており、弟のプロヴァンス伯(後のルイ18世)やアルトワ伯にとって、兄が王座についていることが面白くありませんでした。

そういった空気感がある中、マラーはアルトワ伯に仕えながら、反体制運動を始めました。

1789年にフランス革命が勃発した後は、新聞『人民の友』を発行し過激な弁論で政府攻撃を繰り返し、天候不順による小麦の不作、飢えに苦しんでいた下層民から絶大な支持を受けました。

革命が勃発した直後は、王制を排除するまでの勢いはなく、王様の権力を制限しつつもその権威を保つ方向で革命が推移していました。

そのため、過激すぎるマラーは身の危険を覚えて1790年1月にイギリスに一旦亡命。4月に態勢を立て直してパリへと戻り、8月10日のテュイルリー王宮襲撃事件や反革命派への九月虐殺を引き起こしたといわれています。

1792年には、議会議員に選出されてジャコバン派に所属します。当時、議会を主導していたジロンド派を果断に弁論で攻撃し、一時、逮捕されましたがすぐに釈放されます。

議会での論戦では埒が明かないと考えたマラーは、パリ民衆を蜂起させるという非常手段に打ってでました。

結果、ジロンド派の大半を議会から追放することに成功。ジャコバン派が天下を取ることになりました。

マラーはジャコバン独裁を成立させましたが、この頃、持病の皮膚病が悪化。活動不能となり、自宅にこもって一日中入浴して療養生活を送るようになりました。

そういった状況下において、ジロンド派のシャルロット・コルデーという女性が面会に訪れ、隠し持っていたナイフによってマラーは入浴中に胸を刺されて、1793年に50歳でこの世を去りました。

なお、マラー暗殺後、現場で画家ジャック=ルイ・ダヴィッドが有名な『マラーの死』を描いています。

彼の死後、一回り下の世代へと革命の主導権は移っていきます。
マラーは、ジャコバン派の盟友マクシミリアン・ロベスピエールによって神格化され、ジロンド派への更なる弾圧強化への口実となっていきました。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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