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#0081【春日局(日本、17世紀前半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

女性権力者特集最後は、日本から春日局(かすがのつぼね)をご紹介します。彼女は、戦国時代末期から江戸時代初期に生きた女性です。本名は「福」と伝わっていますが、本稿では春日局で統一して記述します。

父は、本能寺の変を起こした明智光秀の家老を務めていました。本能寺の変後、中国地方から引き返してきた秀吉の軍勢によって、明智光秀軍は敗れてしまいます。春日局の父も殺害されました。

彼女は親戚筋に引き取られて育てられて、稲葉家に後妻として入ります。関ケ原の合戦では夫は小早川秀秋に仕えており、小早川秀秋の西軍から東軍(家康)への裏切りによって、徳川家康は天下を得ることとなりました。

しかし合戦後に夫が家中対立に嫌気がさして浪人すると、生活に苦労するようになります。春日局はその夫と離縁し、縁あって徳川家康の孫である竹千代(のちの第三代将軍徳川家光)の乳母となりました。彼は第二代将軍徳川秀忠と正妻お江与の方の長男として誕生します。

しかし、お江与の方は、直ぐに次男の国松を生みます。国松には乳母をつけず、お江与の方自身が育てたことから両親の愛は国松に注がれるようになりました。さらに竹千代は吃音癖があり発育も遅かった一方、国松は才気煥発な少年だったことも両親の偏愛に更に拍車をかけます。

江戸城内は、竹千代派と国松派に分かれますが、いかんせん両親が国松を愛していることがハッキリしており、竹千代派は長男であるのに劣勢に立ちます。

まだ戦国時代の気分が抜けきらない世相です。実力至上主義がまかり通っていました。

この事態を重く見た春日局は一大決心をします。伊勢参りに行くフリをして駿府(静岡)にいる大御所、徳川家康の元へと単身乗り込みました。そして、江戸城内の情勢を告げ、何とか竹千代を後継ぎへと主張します。

徳川家康は、江戸を訪れて「孫に会いたい」と告げます。

竹千代は家康の膝元でお菓子を手ずから渡されて可愛がられる一方、近寄ろうとする国松を叱りつけて寄せ付けず菓子も投げ与えました。

竹千代が徳川家の後継者であることを皆の前で態度で表したのでした。春日局の活躍により竹千代は将軍後継者の地位を固め、第三代将軍、徳川家光となりました。さらに、お江与の方の死後は、江戸城大奥の総責任者として権勢をふるい、大奥のルール・しきたりを整えていきました。

「才能よりも長子であることが優先される」

こう聞くと何と息の詰まる社会、時代だったんだろうと思うと思います。しかし、戦国時代が到来した理由が「実力」による地位の奪い合いだったことから、戦乱を防ぐためには已むをえない処置だったと思います。

また、中国の隋の話になりますが、初代皇帝である文帝は長男を最初皇太子にしましたが、彼は品行が定まらず能力も低かったと伝えられています。そのため、次男は品行方正をアピールし最終的に長男を排除して、二代目皇帝となりました。暴君として有名な隋の煬帝(ようだい)です。

煬帝は皇帝即位後は品行方正さを失い、自己コントロールが効かなくなり最終的に反乱軍の手で殺害され、隋王朝は唐に取ってかわりました。

家康は、隋のあとに天下を取った唐の名君エピソード集である「貞観政要(じょうがんせいよう)」を愛読していたと伝えられているため、このエピソードも踏まえて竹千代を後継者とすることを決めたと思います。

大事な話だったので江戸時代に、なぜ「長子相続」が大事だったかを本稿で書いてしまいました。

大奥の艶っぽい話はまた別の機会にでも。

以上、今週の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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