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#0105【白河天皇と院政の開始(日本、11C後半‐12C前半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
月初の日本史通史シリーズ、今月は最後に「院政」を取り上げて締めくくります。

延久の荘園整理令によって、不正な荘園を天皇家が没収。藤原氏の経済的・財政的基盤が損なわれた一方で、天皇家の経済力が増強されました。

この大改革を推し進めた後三条天皇は天皇即位後わずか5年で世を去り、藤原氏の妃との間に生まれた白河天皇が即位します。
後三条天皇が改革を推し進められた背景には、自分の母が藤原氏ではなかったことが挙げられます。

白河天皇の即位は、再び藤原氏に権力が戻ることになったのでしょうか。
1072年に即位した白河天皇は既に二十歳と立派な成人であり、荘園整理の結果、天皇家は潤沢な経済力を得ます。

この政治遺産(レガシー)を存分に活かし、藤原氏本流以外からも人材登用を進めていきました。

白河天皇は、父の後三条天皇から白河の弟への譲位を命令されていましたが、その弟が15歳の若さで1085年に病没してしまいます。

翌1086年に白河は、寵愛する妃が産んだ実子を堀河天皇として即位させて自身は上皇となります。

時に白河上皇は34歳、堀河天皇は8歳でした。

藤原摂関政治の時代であれば、幼少の天皇に対して母系祖父である藤原氏が摂政として政治を取り仕切るのですが、白河上皇は実父として堀河天皇を手中におさめ、政治権力を手放しませんでした。

摂政と違い、上皇が政治権力を有するという法令の定めはありませんが、父系血縁カリスマに基づいて権力を実質的に行使します。

「院政」の始まりです。現代においても、正式な役職についていなくても実質的なトップとして先代・先々代等の人物が権力を行使する様相を院政といいますが、その起源はこの白河上皇によるものです。

堀河天皇が成人しても権力は譲らず、堀河天皇が没すると、堀河の5歳の息子を鳥羽天皇として即位させます。当然、権力は白河のもののままです。

さらに鳥羽の息子が5歳になると、鳥羽は譲位させられて上皇となります。上皇となりますが、白河の言うことには逆らえませんでした。

新しく天皇になった崇徳天皇は、鳥羽の息子で、母は藤原璋子(しょうし、待賢門院)です。

この藤原璋子は鳥羽に嫁ぐ前には、なんと白河のところにいて手がついていたと言われています。

鳥羽に嫁いで直ぐに崇徳天皇を生んだことから、鳥羽は崇徳のことを「叔父子(おじご:自分の息子であるが、実際は祖父の息子(鳥羽からみて叔父)」と半ば公然と呼んで、嫌っていました。

次々と天皇を自分の好きなように入れ替えて、強大な権力を保持した白河ですが、このパワフルな人物も最期は77歳の長寿を全うしてこの世を去りました。

当時としてはかなり長寿で、現代の感覚では90代まで生きたイメージでしょうか。

白河死後、鳥羽上皇が政治を取り仕切ることになり、不本意に譲位させられた崇徳から天皇位を奪い、鳥羽と藤原得子(とくし、美福門院)との間に生まれた近衛天皇を即位させます。

この天皇位をめぐる愛憎が天下を大乱へと導き、のちに武士の世を現出させることに繋がっていくのでした。

以上、今週の歴史小話でした!日本通史シリーズは、また翌月初にお送りします。

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