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#0221【三者三様、怒涛波乱の人生(浅井三姉妹)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は戦国の女性特集です。

浅井三姉妹ときいて、ぱっとイメージが湧く方はどれだけいるでしょうか。

浅井長政という滋賀県北部を領していた武将と、織田信長の妹お市の方の間に生まれたのが、浅井三姉妹です。

父が信長に逆らい、生まれ育った小谷城が落城し実父は切腹して果てました。信長の姪である浅井三姉妹は母お市の方と一緒に信長の庇護下に入ります。

本能寺の変が起きると、それまで再婚を拒否していた母は、信長の重臣である柴田勝家と再婚するも、居城北ノ庄城が豊臣秀吉の手によって落城。ここで母は勝家と運命を共にしますが、三姉妹は秀吉の庇護下へと入ります。

さて、この三姉妹ですが長女は茶々といい、のちに豊臣秀吉の側室となって豊臣秀頼を産みます。淀城を与えられたことから淀殿とも呼ばれます。

次女をお初といい、のちに京極高次(浅井家の主人筋にあたる人、お初にとって従兄弟にあたる)という大名の下に嫁ぎます。

三女をお江与の方といい、秀吉の命で何度も嫁にいきますが、最終的には徳川家康の息子、秀忠のもとに嫁ぎました。秀忠との間には、男子では家光(三代将軍)、忠長など、女子では、千姫、和子(後水尾天皇の妻)などを授かりました。

秀吉が死の床にあった際に、秀吉は家康との関係強化を図るため、まだ生まれたばかりの千姫と豊臣秀頼の婚約を決めました。

大坂と江戸が固く結びつき、二元体制を整える意味がありました。

大坂単独政権を目指す豊臣絶対派ともいえる石田三成などの反徳川家康派と、豊臣秀頼が幼いうちは秀吉の遺言にのっとって徳川家康の指示を受けよう派とが、1600年関ケ原で激突します。

最終的に徳川家康が1603年に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きました。

一方で、大坂城にあった淀殿と秀頼も大きな力を有しており、大名たちは江戸だけでなく、大坂にも年賀や時候の挨拶をしていました。

1605年になると、家康は将軍の地位を秀忠に譲ります。ちなみにこの時の家康の年齢は秀吉が亡くなった時の年齢と一緒です。

自分の死後を考えての隠居、代譲りとも捉えられます。

武家としての将軍の地位は秀忠に譲る一方で、貴族階級においては豊臣秀頼を右大臣に、秀忠は一段下の内大臣としました。

右大臣の地位は、織田信長が生前ついた最高位であり、武家にとっては非常に高いポジションです。

ゆくゆくは、秀吉と同じく関白の道もありうる方向性だったものだと筆者は考えています。(異論多数アリですが。)

しかし、大坂と江戸の対立は年々激しさを増していきます。その中にあって、次女お初は仲介者として使者となり何度も双方を訪れます。

1614年冬に武力衝突に発展した際も何とか和議・和平に尽力し、家康の側室である阿茶局(あちゃのつぼね)とお初とで和議の内容を詰めます。

大坂冬の陣は、これで一旦鎮静化しましたが、翌年の夏に対立が再燃。大坂は灰燼と帰し、淀殿と豊臣秀頼は落命しました。

千姫は救出され、豊臣秀頼と側室の間に生まれた娘もお初の尽力などにより、助命されました。

お初とお江与の方は、天寿を全うしますが、その胸中はいかなるものだったか。戦国に翻弄された三姉妹。自分の器量を超える大きな富は災いすら呼び寄せるのかもしれません。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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