#0077【薬子の変(日本、9世紀前半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

平安京を築いた桓武天皇の死後、皇太子だった桓武天皇の長男が即位します。平城(へいぜい)天皇と言います。

ここで、一度、藤原氏内部の勢力争いを整理しておきます。

そもそも藤原氏は、大化の改新で功績のあった鎌足が始祖です。その鎌足には四人の息子がいました。

それぞれ、家を立てて、藤原北家・式家・南家・京家となりました。京家は鎌足の孫の代で失脚して早々に勢力争いから脱落し、南家は藤原仲麻呂が聖武天皇死後に光明皇后に可愛がられたことから権力を振るいますが、光明皇后死後に孝謙・称徳天皇によって追い詰められて乱を起こすも失敗して脱落しました。

桓武天皇の父、光仁天皇即位時に藤原百川(ももかわ:式家)と藤原永手(ながて:北家)が権力を握ります。

桓武天皇は百川の甥である藤原種継を側近に用いますが、長岡京造営中に暗殺されてしまいました。ちなみに桓武天皇が病床にあって「平安京の造営と蝦夷との戦いをやめるべきか」と尋ねて「やめるべき」と答えたのは種継の父緒嗣でした。

北家は永手だけでなく弟の真楯(まだて)も出世しますが、その子ども世代は式家に押され始めてしまいます。

今回のタイトルである「薬子(くすこ)の変」は、実はこの藤原氏内部闘争の決着でもありました。また、古来から現天皇よりも前天皇(上皇)が権勢を振るってしまう問題がここでも顕在化することになりました。

最後に残っていた式家と北家の争いと天皇家内部の争いが結合します。

平城上皇には愛する女性がいました。式家の藤原薬子(くすこ)です。一旦譲位して弟に天皇位を譲って奈良の平城京に引っ込みましたが、薬子に唆されて、復位を目指します。薬子の兄、式家の仲成(百川の甥である種継の息子)もこれに協力します。

不穏な動きを察知した弟の嵯峨天皇は北家の藤原冬嗣(永手の甥の息子)を蔵人頭(くろうどのとう)という機密事項を扱う新役所のトップに据えます。坂上田村麻呂を派遣して仲成を捕縛し、射殺しました。

平城上皇は薬子とともに東国に逃れようとしますが、失敗してしまいます。
薬子は自殺し、平城上皇は助命されますが出家させられて生涯幽閉される身となりました。

この結果、天皇家においては現天皇の至高権が確立します。
また、藤原家も北家が勢力を固めて、冬嗣の系統が最高位を独占することになりました。

冬嗣の息子を藤原良房といい、人臣(皇族以外)で最初の摂政となります。

続きは金曜日に配信するNo.78です。

以上、本日の歴史小話でした!

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