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『ヨーロッパ全史』用語解説 第4章:シャルルマーニュの時代

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この記事は『ヨーロッパ全史』 – 2020/4/25
サイモン・ジェンキンス (著), 森夏樹 (翻訳)

の各章に出てくる用語を解説しているページです。

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第4章 シャルルマーニュの時代

「大グレゴリウス」

【グレコリウス】
生没年540?-604年。ローマ教皇です。グレゴリウス1世、大グレゴリウスとも呼ばれます。ローマ・カトリック教会の典礼(宗教行事、讃美歌とかも入る)を整備したり、教会制度の改革をしたりしました。中世初期の代表的なローマ教皇です。ちなみにグレゴリウスは今のところ16世までいます(多すぎ。。。)。
 
【教父】
前述しましたが、再掲しておきます。
「教父」というのは、キリスト教用語で古代キリスト教の時期、教義を固めていくタイミングであった2世紀から8世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、正統的な著述を行いながら自らも聖なる生涯、すなわち「立派な神父様」と認められている人のことを指すワードです。
 
【アウグスティヌス】
生年不詳、没年604/605年。前述した聖アウグスティヌスとは別人です。ややこしい!区別するためにこちらは「カンタベリーのアウグスティヌス」とも呼ばれています。イングランドへのキリスト教布教で知られています。
 
【分割相続の制度は移動性の高い民族には適していた】
日本でも鎌倉時代などで分割相続が一般的でしたが、分割相続で分かれてしまうから特に土地なんかだと生産性が低下してしまう。「長男とか誰かひとりに継がせるのが効率的だし、妥当だよね。」という感覚があるかもしれませんが、それは持ち運べない土地が相続財産として大きかったからなんですよね。ゲルマン系民族(フランク族も含まれます)は遊牧していたわけではないが、各地を移動していたので、財産は持ち運べるものでした。ヴァイキングとか海賊がじゃらじゃらと宝石を身に着けている様をイメージしてもらうといいかもしれません。なので、分割がしやすかったんですよね。それにあまりにも多くなると身に着けられなくなっちゃうので、その点からも分割相続が適していました。これは遊牧民にも当てはまります。しかし、やがてフランク族たちも定住するようになり、相続制度は様変わりしていきます。

「ペルシアとイスラム」

【ヘラクリウス】
生没年575頃-641年。東ローマ帝国の皇帝。ヘラクレイオスとも言います。ササン朝ペルシアと6年に亘って戦い、中東地域の領土(シリア・パレスティナ一帯)を奪い返すことに成功したものの、その当時勃興してきたイスラム教の勢力に敗れ、結局奪い返したシリア・パレスティナ一帯を再び失うことになりました。
ヘラクリウスの治世において、東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシア語に変わり、軍事と行政が一体化したりするなど帝国の中身に変化が訪れ、古代ローマ帝国から「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ばれるようなギリシア的要素の強い「中世ローマ帝国」の幕開けとなりました。
  
【ペルシア帝国】
ササン朝ペルシアのこと。226年-651年まで存在しました。イラン高原やメソポタミアなどを支配し、ローマ帝国と領土争いをしました。帝国勃興初期の260年(ローマは当時軍人皇帝時代で混乱していた時期です)には、エデッサの戦いで、ローマ皇帝を捕虜にするなど隆盛を極めます。宗教はゾロアスター教と強い結びつきがありました。勃興してきたイスラム教勢力に敗れ、国は崩壊。その後、同地のイスラム化が進みました。
 
【ニネヴェの戦い】
627年にニネヴェ(位置は下図赤枠参照)で起きた戦い。東ローマ帝国とササン朝ペルシアの決戦でした。この戦いに東ローマ帝国が勝利したことにより、中東地域における東ローマ帝国の領域は古代ローマ時代の最盛期の範囲まで回復することができました。しかし、アラビア半島からイスラム教勢力が進出してくると、東ローマ帝国はこの領域を再び失陥しました。

【預言者】
予言者と預言者の使い分けができるとステキ!
予言者:占い師、未来を予め言い当てる人、ノストラダムスの大予言。
預言者:神の言葉を預かった人、必ずしも未来のことを話すわけではなく、神様の命令「こうしなさい」を伝える人
 
【預言者のムハンマド】
生没年570頃-632年。イスラム教の創始者。一神教の教えとして過去に遣わされたアダム、アブラハム、モーセ、イエスなどの預言者の系譜に連なりますが、その最終預言者としてイスラム教では位置づけられています。当時東ローマ帝国とササン朝ペルシアの争いで、アラビア半島経由の貿易・交易が発達し、アラビア半島は貧富の差が激しくなっていました。さらに多神教世界だったアラビア半島では宗教的な統一もないという社会的な背景もあり、一神教を唱えたイスラム教は紆余曲折あったものの、ムハンマドが死を迎えるときには、アラビア半島のほとんどはイスラム教に染まってしました。
  
【コプト人】
キリスト教単性説(前述)を信じるエジプト人キリスト教徒のことです。単性説はカルケドン公会議で異端とされましたが、エジプトでは残り続け、エジプトがイスラム化された後もコミュニティが存続し、現代にも残っています。エジプト人口の約1割がコプトです。コプトは民族というよりも宗教としての区分けなので、エジプト以外のコプト信徒を含めると全世界で1000万人とも2000万人ともいわれています。ちなみに古代エジプト暦の流れを汲むコプト暦を使っています。

「シャルル・マルテル(カール・マルテル)と小ピピン」

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