#0065【桓武天皇と平安建都(日本、8C末‐9C初)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

今日は【0051:称徳天皇と道鏡】の続きです。称徳天皇崩御後の770年に天智天皇系の光仁天皇(天智天皇の孫)が即位します。

781年に光仁天皇が高齢のために没すると彼の息子が即位しました。桓武天皇です。ちなみに桓武天皇の母方は百済王族(朝鮮半島出身)の末裔でした。

桓武天皇は、天武天皇系の都である平城京から遷都をすることを決め、784年に長岡京に遷都します。しかし長岡京造営中に桓武天皇の腹心である藤原種継が暗殺される事件が発生しました。

この事件は藤原氏の勢力拡大を嫌った大伴氏によるものとして関係者の処罰が進みます。桓武天皇の弟で皇太子となっていた早良親王(さわらしんのう)の関与が疑われ、淡路島に流罪となりました。

早良親王は兄に無実を訴え、断食して抗議しますが淡路島への護送途上で憤死します。亡骸は都に戻ることが赦されずに淡路島に埋葬されることになりました。

その後、長岡京の造営が洪水の影響で進まず、桓武天皇の息子も病弱となるなど桓武天皇の周囲に暗い影がおります。

祈祷の結果、早良親王の祟りによるものと判明したため、怨霊鎮魂のため慰霊祭を行うなどをしますが、効き目がありませんでした。

遂に桓武天皇は造営途上の長岡京を放棄することを決めます。794年、なくよウグイス平安京に遷都しました。

平安京の土地が選ばれた理由は交通の便などを考慮していますが、加えて、長岡京の北東の方向に位置し、四神相応(ししんそうおう)の土地であったことも理由として考えられています。

北東の方角は鬼門と呼ばれ、悪霊がやってくる方角と考えられていました。ここに都を建都することによって災厄を防ぐことができると考え、さらに四神相応という風水思想に合致した土地である平安京はまさに理想地だったのです。

四神相応とは、風水思想において縁起が良いとされる土地で以下の条件を満たす土地を指しています。
 東の神:青龍=流水(鴨川)
 南の神:朱雀=湖沼(巨椋池)
 西の神:白虎=大道(山陽道)
 北の神:玄武=高山(船岡山)
括弧内が平安京における四神相応です。

これらに加えて、平安京自体の鬼門に、遣唐使として唐に派遣され最新の仏教をもたらした最澄の比叡山延暦寺があります。

風水、仏教のみならず、言霊の力も借ります。

それまで平安京があった土地の旧国名は山背国(やましろのくに:奈良などからみて山の後ろ側の土地)だったものを山城国(やましろのくに:山という城壁に守られた土地)と改名しました。

これらの力のお陰か、平安京は短い例外期間を除いて明治維新による東京遷都までの間、千年の都として栄えます。

しかし、平安時代という貴族の優雅な時代が終わりを告げると度重なる戦乱に巻き込まれ、15世紀の応仁の乱によって灰燼と化しました。

戦国時代を通して皇居すら再建がままならぬほど貧窮しますが、信長・秀吉・家康の手によって平安京は再建されました。第二次世界大戦の戦火を免れて今も貴重な文化遺産を遺してくれています。

以上、本日の歴史小話でした!

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