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#0124【革命のパリへ(ロラン夫人①_フランス革命)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週はフランス革命特集第二弾です。
前回はNo.70~No.72でした。
 No.70【フランス革命の勃発】
 No.71【ミラボー】
 No.72【ラ・ファイエット】

1789年に勃発したフランス革命は、それまで絶対王政を敷いていたフランスにおいて国王や貴族、聖職者たちの権力・権威が落ちていき、ブルジョワジー(当初は中産階級も含む言葉でした)が権力を握っていく市民革命です。

「自由・平等・友愛」この理想に向かって突き進んだ革命でしたが、その道は平坦ではなく、様々な紆余曲折がありました。

革命が勃発した当初は、イギリスを見習って王権を制限する立憲君主制を目指す勢力が中心となります。

しかし、国王が国民を見捨てて国外へと逃亡を企てた「ヴァレンヌ逃亡事件」が1791年6月に起きると徐々に国民は国王不要の共和制へと傾きます。

これ以降の革命を主導したのが「ジロンド派」と呼ばれる勢力でした。

この派閥名は、ワインの名産地として有名なボルドー市が県庁所在地であるジロンド県の出身者が多かったことが由来です。

このジロンド派の事実上のリーダーが、今週全三回にわたって取り上げるロラン夫人です。

後にロラン夫人となるマノン・フリッポンは1754年に彫金師をしていたガシャン・フリッポンの娘として生まれます。

父は工房を持ち、宝石店も経営しており、そこそこの中産階級に属する典型的な市民として育ちます。

彼女は、小さな頃から美人で評判でした。また頭脳明晰な女性だったと伝わっており五歳にもならないうちに文字を覚えて本を読めるようになったといいます。

十代に入るとむさぼるようにギリシャやローマの古典から当時最新の思想家であるヴォルテールやルソーの著書を読み漁りました。

彼女自身が記した『回想録』には上昇志向の強さが残っています。しかし、あくまでも平民階級の出身です。どんなに美人で頭脳明晰であったとしても身分の壁を乗り越えることは難しかったのです。

彼女が選んだ手段は自分よりも二十歳も年長のロラン・ド・ラ・プラティエールという学者との結婚でした。

貴族ではないものの、公的な地位を有する男性でした。堅物な男性だったと伝わっていますが、ロラン夫人となったマノンにとって彼の周囲にいた教養人との触れ合いは彼女の自尊心を満たしていたようです。

革命が起きなければ、平穏な人生を歩んだかもしれません。

しかし、1789年にパリで革命が起きると進歩的な姿勢が買われた夫のロランは、国会議員に選出されました。

彼女も夫に付き従い、パリに赴きます。彼女の人生が大きく動き始めることになったのです。

以上、本日の歴史小話でした!

(続き:No.125【ジロンド派の女王(ロラン夫人②_フランス革命)】)

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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