#0064【三世一身の法と墾田永年私財法(日本、8世紀前半)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

今週は日本通史シリーズを取り扱います。前回は【0051:称徳天皇と道鏡】まで進みましたが、ここで古代日本の土地制度の変遷について触れておきたいと思います。

古代日本は、天皇家のみならず豪族たちも土地と住民を私有していました。やがて豪族の中から天皇家よりも力を持つ蘇我氏が出てきて、天皇の権威に挑戦するような動きが出てきました。

これを乙巳の変(いっしのへん:645年)で排除したのが、中大兄皇子と藤原氏の祖となる中臣鎌足でした。

彼らは天皇を中心とした国造りを目指し、当時の超大国である中国唐から律令制度を導入します。律令制度において土地は国有化が前提であり、豪族から土地と住民を剥がすことになります。これを「公地公民制」と言います。国有化した土地を国が住民に付与して耕させて租税を徴収するようになりますが、これを「班田収授法」と言います。

ところが、この制度ですと新規で開墾した土地も国有化されてしまうため、新田開発が進みませんでした。豪族たちにとっても自分たちの富を増やすためにも何とか土地の私有化を図りたいという思惑もあり、723年に「三世一身の法」を成立させます。

この三世一身の法は、新しく開墾した土地については三代(本人・子ども・孫)に対して私有を認め、既存の土地を整備した場合は一代限りで私有を認める制度でした。

701年に大宝律令が制定されてから僅か20年強で公地公民制が揺らぐことになりました。ここからさらに二十年後の743年には墾田永年私財法が成立します。のちのち国有地にされるため、新田開発が進まなかったことが理由の一つです。

墾田永年私財法によって三代に限らず開墾した土地の私有が認められるようになりました。戦国時代まで続くことになる荘園制度の始まりです。

国有地を耕作するよりも新規開墾が奨励され、国有地は放棄されて荒れてしまう一方、荘園が増えていくという状況になります。

国庫という観点からみれば、国有地が荒れてしまうと収入が減ってしまうため、残された土地に重税を課すことになってしまいます。その結果、重税を課せられた住民が逃散して荘園に逃げ込み更に荘園の開墾・耕作が進むという状況に陥っていきます。

のちには、天皇家の公的・私的費用を賄うために天皇家自身も荘園を持つという事態を引き起こすほど、この制度がもたらした矛盾は大きくなってしまいます。

さらに全ての人に私有が認められたわけではなかったため、開墾地の私有権を確保できたのは藤原氏などの大貴族たちに限定されていました。

私有地とはいえ、その土地から収穫物があれば国有地と同様に「租税」が発生します。しかし、大貴族たちは役人による実地調査を拒否し、口頭調査にしか応じません。あくまでも「荘園=家庭菜園」だといって、納税を拒否したのです。

国の政治の中心を担うべき大貴族が、いうなれば「脱税」をしているのです。中級貴族や地方の地主・武士たちも大貴族の真似をしますが、役人による調査を完全に排除することができません。そこで彼らは大貴族たちの名義を借りることにします。名義が大貴族になっているため、この土地に対しても役人は実地調査ができなくなります。

租税回避を目的とした結果であるとはいえ、実際に地方に在住している武士たちが開墾した土地の所有者は、名義の上では大貴族のものとなりました。

「どうして大貴族だけが無税なのか」
「なぜ自分たちが開墾した土地の名義が自分たちではないのか」

この土地制度に孕む大きな矛盾が日本史を動かす原動力となっていきます。
続きは、また別の機会に譲ります。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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