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#0237【悪人は救われる。ましてや善人は(親鸞、鎌倉新仏教)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
今週は極楽浄土や阿弥陀如来に関する全体像について触れ、前回は浄土宗の法然を取り上げました。

前回:No.236【法然】

今回は法然の弟子で、彼の考えから一部独自路線を歩み浄土真宗を立ち上げた親鸞(しんらん)を紹介します。

親鸞は、1173年に下級貴族の子として京都に生まれますが9歳のときに比叡山にて出家します。

青年時代は雑務をこなしながら「不断念仏」という念仏をひたすら唱えるという下級僧侶として修業を重ねます。

1201年に比叡山を下ると親鸞は聖徳太子の創建と伝わる六角堂に籠ります。彼はどうしても解消できない悩みがありました。それは性欲です。

現在もミャンマーやタイなどの上座部仏教国だけでなく日本以外の仏教では戒律を重んじています。特に異性との関わりはあらゆる執着、我執へと結びつくことからきつく戒められています。タイのお坊さんに女性が触れることはタブーとされています。

しかし、親鸞はこの悩みを解消できずに苦しんでいました。六角堂で100日間の参詣をしていたところ、95日目に聖徳太子の化身として観音菩薩が夢の中に現れ、女犯の罪を犯さざるをえないのであれば、自分が何とかしてやろうというのです。

親鸞はこの夢告の意味を理解するために当時京都で高名を馳せていた法然のところに赴くのです。そして、法然の考えに共鳴してその弟子となります。

法然が世間を混乱させたとして1207年に流罪に処せられると、親鸞も越後(新潟県)に流されました。そして、親鸞はこの流罪地において地元の豪族の娘と結婚し、子どもをもうけるのです。

僧侶の身でありながら、公式に大っぴらに結婚するなど許される行為ではありませんでした。しかし、親鸞は阿弥陀如来にひたすらすがることが救いの道に繋がるのであれば、結婚や子どもの誕生などの俗世間の執着など大したことではないと考えたのです。

その後、罪が許されても法然なき京都に未練もなく、関東へと向かいます。そこで、飢饉の災いを救うべく行動に出ようとしますが、これは阿弥陀如来の力を信じず、自分の力を信じることにつながるとして途中でやめます。

親鸞は、自力救済は考えずに「絶対他力」、「他」とは阿弥陀如来を指し、阿弥陀如来の力に絶対的に依拠することが救いの道との思いをますます深めます。

ここから更に「悪人正機説」という「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」文句で有名な考えを深掘りしていくことになります。

善人でも救われるのに、なぜ悪人が救われないのか。

通常は逆のように感じますが、親鸞は人間は所詮どんなに努力しても阿弥陀如来の目からみたら悪の要素がある悪人である。自分のことを善人だと思っている人間の方が性質が悪いと考えました。

悪人の場合、自分がダメだいうことを理解しているため、絶対的に阿弥陀如来にすがるのだから、自力しようという心がないため、善人よりも救われやすいという発想です。

親鸞の考え方に馴染めない方もいるかと思いますが、人間を超越したものと比べたときに、人間の違いなどは五十歩百歩に過ぎないのかもしれません。

親鸞は関東で過ごしたのち、京都・近畿に戻ります。1262年90歳で没。その墓所を「子孫」(僧侶なのに妻帯し子どもがいたため)が受け継ぎ、やがて本願寺というお寺になりました。

もちろん、この本願とは阿弥陀如来の本願から来ています(No.235参照)。

以上、今週の歴史小話でした!

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