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#0206【立身出世の体験談(呉子、中国古典兵法書)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。今週は中国古典兵法書関連です。

第2回は「孫呉の兵法」として『孫子』と並び称される『呉子』を取り上げます。

(中国古典兵法書特集第1回:No.205【六千数百字の組織経営エッセンス(孫子)】)

呉子も孫子と同様、書物の『呉子』と人物としての呉子の二つの意味があります。人物の呉子の本名は呉起。以後、書物は呉子、人物は呉起として表記します。

孫子は理論的な部分が多く独白調(モノローグ)であるのに対し、呉子は理論に加えて呉起の体験談が加えられており王様との間の対話調(ダイアローグ)となっている点が特徴です。

彼は孫武よりも約100年後の時代に、黄河中流域にあった衛(えい)という国に生まれます。諸国をめぐって仕官(就職)活動に励みますが、失敗し家産を食いつぶした状態で国に戻ります。

衛の町では、呉起の失敗が笑いのネタとなっていました。ある日、呉起が歩いていると、ならず者が呉起を馬鹿にします。腹を立てた呉起はこのならず者を切り殺してしまいました。その結果、衛に入れなくなり逃亡します。

逃亡先で、孔子の弟子で有名な曾子(そうし、曾先生)のところに弟子入りして学問に励みます。メキメキと頭角を現しましたが、その勉学を修める前に母の死を知らせる人がいました。

しかし、呉起は母の葬礼を営みませんでした。この話が師である曾子の耳に入ると呉起は破門されてしまいます。曾子は孔子の門人の中でも特に「孝」を重要視する人物だったからです。

呉起は、その後、紆余曲折を経ながら新興国家「魏」へと足を運びます。そこで自分の才能を王様に認めてもらうことができ、将軍の地位に登ります。

将軍となってからも一兵卒と同じ境遇に身を置き、行軍中は徒歩で、宿営は野宿で、食べるものも同じで過ごします。それまでの将軍は身分が高く、兵士たちの気持ちを慮ることもなくただ命令をするだけでした。呉起が将軍になってから魏は国力を強めました。

順調に功績を上げていった呉起ですが、途中で出世が伸び悩んでしまいます。彼を登用してくれた王様がなくなり、実績のない若い王様が即位したからです。

名声高い呉起を最高ポストにつけてしまうと王様の権威が弱まる可能性がある。賢い呉起は、この状況をいったんは受け入れます。しかし、やがて呉起は魏ではこれ以上の出世ができないことも悟ります。

呉起は、魏を抜け出して、南方の楚(そ)の国へと亡命しました。楚の王様は喜んで呉起を登用して宰相に任じました。呉起は信賞必罰の法制度を導入し、特権階級の貴族たちの既得権益を奪いました。

貴族も平民も懸命に働き、戦うようになりましたが、貴族たちの恨みを呉起は買ってしまいました。その後、楚の王様がなくなると呉起殺害が企てられ、楚の首都に内乱の兵が襲い掛かります。

呉起は王様の遺体が安置されている部屋へと逃げ込みます。呉起を殺そうとする兵士たちは矢を呉起へと射掛けました。呉起は王様の遺体へと抱き着き、矢の雨を受けて絶命します。

呉起派の兵たちが救出にやってきたときには、内乱を起こした貴族や兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出していました。その場にはハリネズミのようになった王様と呉起の遺体が残っていました。

王様の遺体に矢を射かけた罪によって、呉起を倒そうとした貴族と内乱の兵たちは全員処罰されました。

呉起は自分が死んでも復讐が可能となるように王様の遺体安置所へと逃げ込んだのです。兵法の達人としての面目躍如といったところでしょうか。

呉子には「人に短長あり、気に盛衰あり。」という一文があり、人材や状況は取り方次第でどうにでも活用の仕方があると述べています。孫武と違い、立身出世を追い求めた呉起の人生と重ね合わせるとより一層の深みを感じます。

以上、本日の歴史小話でした!

(次回:No.207【対話で深める温故知新(李衛公問対、中国古典兵法書)】)

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