2023年8月に読んでよかった本

宇野常寛の著作とその周辺

ゼロ年代の想像力

母性のディストピア

砂漠と異人たち

成熟と喪失 “母”の崩壊

女という快楽

宇野の問題意識は現在まで一貫して、ポストモダンにおける成熟像の模索にあるようにおもう。かつて成熟とは、大きな物語に対して態度を確立させることを意味した。大きな物語が失効し、小さな物語が乱立する現代日本社会における成熟とはなにか、という問いは、自分がもっていた漠然とした「存在の地に足ついてない感」を言語化したもののようにかんじた。

ゼロ年代の想像力(2008年)では、(暫定的な)成熟像の例として、あらかじめ決定された家族ではなく、自分で選択する擬似家族を形成することや、小さな物語同士をつなぐコミュニケーション、「終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」を、「終わりある(ゆえに可能性にあふれた)日常」に読み替えることを提示していた。この時点では、決断主義(特定の小さな物語を信奉し、それを守るため外部に暴力を発揮すること)を、中間共同体を多重化することで回避するという、"ゆるい”提案にとどまっていたようにおもう。母性のディストピア(2017年)では、この楽観は一変し、社会情勢に強い危機感を抱き、それすらも超えて絶望していることがうかがえる。ゼロ年代の想像力で言及していた、日本社会における母性の重力(共同体から異分子を排除する暴力性)が、3.11以降の情報環境において決定的に強くなったことを感じ取っている。この時点で、情報環境の変化を視野に入れてあらたな中間共同体を提示することを示唆している。そして、このあと「遅いインターネット」、「庭」プロジェクトと具体的な施策を打ち出しつつ、砂漠と異人たち(2022年)では、「ゲームから降りることで、ゲームそのものに依存しないための抗体をもつこと」を提案している。その提案を実現する例として、走ること、とくに"遅く"走ることや、人ではなく事物に語ることを提示している。これは自己幻想を強化することを提示し始めたのだとおもった。

究極的には「世界と個人をつなぐことの不可能性を直視しながら生きる」「人が不可避に選び取ってしまう小さな物語には、絶対性が原理的に存在しないことに耐えながら生きる」というニーチェの超人的な態度でしか成熟はなしえない、とわたしはおもっている。しかしこれは理想であり、現実的には無理だとおもう(ニーチェは発狂してしまった)。宇野もゼロ年代の想像力時点で、これが「決断主義」に対して批判力を持ちえないことを認識していた。そこから現在に至るまで、社会情勢を分析し具体的な中間共同体を提示しつつ、自己幻想を強化する具体的な行動を提示していることは、まさしく「想像力の必要な仕事」だなぁと感嘆する。



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