2023年12月に読んでよかった本 「資本主義の〈その先〉へ」

12月というか年始にかけて読んだ本

資本主義の〈その先〉へ 大澤真幸

おもしろかった!!
経済だけでなく「全体的社会的事実」(マルセル・モース)としての資本主義に内包されるダイナミクスが、キリスト教カルヴァン派の予定説、近代科学、近代的な小説にも通底しているという説は読んでいてとてもおもしろかったし、納得できるものがある。

社会を考える言説として、以前読んだ東浩紀『観光客の哲学』『訂正可能性の哲学』との関連を意識しながら読んだ。
(ちなみに本書と『訂正可能性の哲学』は外観の緑色がそっくり似ている)
ウィトゲンシュタインやミハイル・バフチン、グラフ理論の引用、プラグマティズムへの言及に共通する部分が見える。
以下では『観光客の哲学』『訂正可能性の哲学』を参考にしつつ、本書の考察を行い、本書から得た自分の考えを述べる。

中村哲さんとペシャワール会の例から

まず注目したいのは、資本主義の〈その先〉の究極の実例として挙げられている中村哲さんとペシャワール会が成したことである。
なぜ中村哲さんとペシャワール会だけがアフガニスタンを真に効果的に支援することができて、先進諸国はできなかったのか。

大澤はそれを、中村哲さんが外部の人間でありながら現地の人間として活動したことに見ている。
これは矛盾である。
論理学や数学の集合論として見るなら、このような自己言及的な集合は禁止されるもの、つまりその論理の内部で扱い得ないものである。
大澤はこの矛盾──どんな共同体のアイデンティティにも必ず宿る隙間──が、資本主義の〈その先〉を可能にする〈普遍性〉と見ている。

中村哲さんの立場は東の言葉で言う「観光客」に近い立場だと思う。
これは間違っても通念上の観光客の意味ではなく、「友(内部の人間)」でも「敵(外部の人間)」でもない第三の立場の人間を意味する。

ただし、共通するのは「友」でも「敵」でもないという点だけであって、中村さんには現地を支援するという明確な目的意識と主体的なコミットメントがあった。
東の「観光客」では、そのような観光先への何らかのコミットメントは指向されていなかった。それゆえに「市場と程よく距離を取る賢い消費者像」「(戦後的な)自省的な家長像」[*1]という指摘があった。

中村さんの例からは、外部でも内部でもない第三の立場をとりつつコミットメントを可能にする「観光客2.0」(?)の像を抽出できるような気がする。(それはもう「観光客」ではないが)

「リベラル・アイロニズム」

さらにわたしは以下の文に注目する。

要するに、中村さんはひとりのアフガンとして活動したのです。もう少し含みのある表現で言い換えれば、中村さんは、現地の人たちとともに同じ困難の中に立ち、一緒に苦しんだ。

大澤真幸,『資本主義の〈その先〉へ』,筑摩書房,2023,p.407

「外部の人間でありながら、現地の(内部の)人間として活動したこと」はおそらく必要条件であって、十分条件ではない。
言い換えると、「現地の人間として活動した」だけでは不十分である。
「一緒に苦しんだ」という共感が中村さんと現地の人間の連帯を可能にしたのではないか。
ここで念頭に置いているのは、『訂正可能性の哲学』でも取り上げられていた、リチャード・ローティの「リベラル・アイロニズム」である。

「リベラル・アイロニズム」とは、東によると「公と私の徹底的な分裂を受け入れる立場」[*2]である。この立場をとると、あらゆる政治的宗教的イデオロギーは、私的なものに留め置いて、公共の場に出してはならない。
(これは自己矛盾であり、だからアイロニズムという名前がついている。)

ではどのように連帯をつくるのか、言い換えると「わたしたち」を構成するのかと言うと、共感や想像力を基礎に置くことを提案するのである。

共感や想像力による連帯はその根拠の弱さゆえに不断に「わたしたち」を拡張してゆける。
中村さんは、外部の人間でありながら現地の人間と行動を共にし同じ境遇に身を置くことで、現地の人間にとっての「わたしたち」となったのではないだろうか。

試論:なぜ「リベラル・アイロニズム」は流行らないのか

「リベラル・アイロニズム」と資本主義的ダイナミクスの差異を考えることで、「リベラル・アイロニズム」が流行らない原因を考えてみる。
流行る流行らないという考え方で思想を捉えることに疑義があるかもしれないが、これ以外の適切な言葉が思いつかなかったのでこのように書く。

根本のアイデアは以下のとおり:
「リベラル・アイロニズム」も資本主義も自分自身を規定する境界を内部に取り込むことで拡大していく点で共通している
根本的に資本主義と同等の仕組みならば、あまねく世界を席巻してもよさそうだがそうはなっていない。なぜか。どこに違いがあるのか。

わたしの答えは以下のとおり:
違いは「リベラル・アイロニズム」には剰余がないことである。
内部に剰余を発生させるメカニズムが備わっていないのである。
ではなぜ剰余がないのか。
それは「公と私の徹底的な分裂を受け入れ」ているからである。
これはおそらくトートロジーになっている。
つまり言い換えると、「公と私を統合しようとする意思こそが剰余の本質である」のではないかということである。
予定説も資本主義も近代科学も、究極の公としての「終わり」を前提としており、「終わり」に向かうダイナミズムを内包している。
「終わり」とは、予定説ならば終末(と救済)、資本主義なら経験可能領域の完全な普遍化、近代科学なら完全な科学的真理。

「リベラル・アイロニズム」、あるいは「リベラル・アイロニズム」と同じ思想に立脚する哲学的立場であるプラグマティズムでは、この公を想定しないために言説が浸透しないのではないか。
というかこれもトートロジーである。
なぜなら思想の浸透こそが公であるから。
「浸透を志向しない言説」これが「リベラル・アイロニズム」「プラグマティズム」であり自己矛盾である。

資本主義の〈その先〉についてのひとつの考え

小説についての大澤の論を発展させる形でひとつ考えたことがある。
結論だけ言えば、虚構フィクションが資本主義に覆いかぶさる形で資本主義は〈その先〉にたどり着くのではないか」

なぜこのように考えられるのか。

「なぜ近代において小説が求められ、広まったのか?」
この問いへの大澤の回答は、「第三者の審級(=神的なもの)が実は私のことを知らないのではないかという不安を抑圧するため」である。

以下はわたしなりの要約なので詳細は本書を読んでほしいが、中世から近代にいたるとき人々が小説を求めたのは、小説の主人公の行く末がひとつの小説という形で提示されることで、第三者の審級(小説の場合「全能の作者」)が存在し機能していることを確かめることができたからである。
小説においては、主人公やその他の登場人物に起こる出来事は、その結末から振り返ってみればすべて必然であったことがわかる。

本文の言葉を使えば小説は「神に見捨てられた世界の叙事詩」なのである。
神を前提としなければ叙事詩は成立しないというのは、本書にある通りである。
神に見捨てられた世界(近代)において人々は、神(作者)が機能する世界──小説──を読むことで、不安を抑えるのではないか。

わたしは、この論は意外と広い射程を持っていると考える。
大澤の言う通り資本主義とは予定説を純化させたものであるならば、我々現代人はこれまでのどの時代よりも強く全能の神(一神教)を信奉していることになる。しかもそのことにまったく無自覚に。
そのような時代において、人々はより強く小説、いや第三者の審級を確認できるような虚構フィクションを求めるはずではないか。

それならば、そのような虚構フィクションはおそらく現実と区別がつかなくなるまで現実に接近する(あるいは侵食する)だろう。
なぜなら虚構フィクションにとっては現実こそが到達しえない「終わり」であるから。
ここでいう現実とは、我々が生活する現実世界リアル・ワールドのことではなく、実在リアリティのことである。

つまり、虚構フィクションは、資本主義的ダイナミズムを内包している。小説が資本主義的ダイナミズムを内包していること自体は本文でも述べられていることだが、本文にない視点を付け加えると、このダイナミズムの剰余に相当するのは、「現実とのギャップ」であると考える。
本文では近代的小説の極限を19世紀の小説家フローベールが書くはずだった『紋切型辞典』に求めている。この極限に至るときに失われる剰余は、「あらゆる人生を包摂するような普遍的な記述」[*3]への志向である。

現代に即して小説を虚構フィクション一般に拡張すると、剰余は「現実とのギャップ」に至る。
音声、映像(映画)を経て、体験(VR・AR)までも虚構フィクションとして経験できる我々現代人にとって意識される剰余は、「(思い通りになる虚構フィクションの外部としての)現実とのギャップ」を置いて他にないのではないか。

虚構フィクションは、現時点では資本主義そのものと近代科学に従属しているが、この関係はある時点から逆転するのではないか
これはわたし含めた世間の人々は金のためだけに働いているわけではないという実感に基づく素朴な直観に相応の根拠(大澤の論)を適用したものとも言える。

本書でも取り上げられている、デヴィッド・グレーバーの「ブルシット・ジョブ」の概念はこの直観を補強してくれる。
これは資本あるいは剰余価値が究極の公ではないことを示している。
わたしの直観は「究極の公に近いのは資本よりも虚構の極限としての現実である」とも言い換えられる。
近年の情報技術の進展をみると、あながち的外れとも言えないのではないだろうか?

ただしお気づきかもしれないが、この極限が意味するのは「自己の認識から他者を完全に消去すること」である。
そのような社会のヴィジョンは「各々が各々の現実リアリティに引きこもる」ディストピアじみたもの(『マトリックス』の自分一人版)になると思う(それはもはや社会とは呼べないだろうけど)。

その一歩手前──自己が自己として存在するには第三者の審級としての他者を原理的に排除できない点を認識させる程度の他者のみ存在を許される現実リアリティ──が資本主義の〈その先〉ではないか。
具体的なヴィジョンはまったくありません。


[*1]宇野常寛,母性のディストピア,集英社,2017年,p.452
[*2]東浩紀,訂正可能性の哲学,ゲンロン叢書,2023年,p.98
[*3]大澤真幸,資本主義の〈その先〉へ,筑摩書房,2023年,p.333


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