2023年9月に読んでよかった本は「訂正可能性の哲学」でした

めちゃおもしろかった!!!

東氏が言いたかったことは、「民主主義の理念を、理性と計算だけで、つまり科学的で技術的な手段だけで実現しようとしてはいけない」である。この主張を支える論理を様々な時代の哲学者の論を参照しながら明瞭に提示している。それらを「訂正可能性」という一語でつなげるのがベリー良👍これぞ哲学人文学や!!とおもった。

お気に入りポイントは、ルソーが書いた「新エロイーズ」という小説の読解で、彼が論じた社会契約説という民主主義の基礎となる論理は、小説という論理ではない言葉で補ってはじめて完成するのだということを示すところです。政治と文学、公と私は対立するものではなく、お互いがお互いを補うことが社会の持続には原理的に必要なのだということを、小説的な、感情の領域でも理解できた。

ただ、一般意志をデータベースや人工知能(AI)としたとき、それに対置するべきとされる「小さな社会」はどのように一般意志を訂正するのかイマイチつかめない。
東氏は、「小さな社会」でなされる「対話」──とことん「開かれたもの」であり、終わることがなく、みなが同意する安定した「真実」にけっして辿りつくことがないもの[1]──は、「必ずしも理性的で倫理的なものではない[2]」としている。
この対話が民主主義には原理的に必要なのだという理屈は、自分では理解できるのだが、この理解という事実が一般的に、果たして一般意志の正しさに太刀打ちできるのか、という点に疑問がある。
言い換えれば、大きな物語への回帰欲求に、理性的であれと言うことだけでは、不十分ではないか。

東氏もこの点はよくわかっているものとおもう。だからこそ『一般意志2.0』で行っていた政治の未来を語ることを、本書では避けている。でもあるべき姿を語る(ある立場を選び取る)ことこそ、本書の思想の実践ではないのか。いやそうしてしまうと、言いたかったことが正しく受容されないだろうと東氏が考えるのも無理からぬ話ではある……。

そして自分もどうすればいいのかよくわからない。
評論家宇野常寛氏の『母性のディストピア』や、丸山真男の『日本の思想』といった、物語回帰の強さを説く言説を参照しながら考えてはみるが、やはりどうすればいいのかよくわからない。個人レベルではこの構造を認識するだけで良いのだが、その認識を普遍化することは本当に難しい……とおもう。

あと、325頁の注釈でさらりと触れられている、政治(ポリス)と文学(オイコス)の二項対立が、一般意志、全体意思、特殊意思の三項鼎立と相性が悪いという指摘は、かなり本質的ななにかであるかんじがする。
なんというか、自己とそれ以外と、それを分かつ境界という感じで、原理的に自分以外という存在を厳密に措定できないなかで、でもやっぱり自分以外は素朴に存在するという矛盾が三項鼎立になっているのではないか……その解消できない矛盾こそが時間性で、時間性を導入する(訂正可能性を織り込む)ことで二項対立と三項鼎立を接続しているのではないか……など。頭の中の考えることリストに入れておきます。

[1]:同書308頁、311頁
[2]:同書322頁


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