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【意訳】ウェイド・ゲイトン:NYのアトリエにて

Wade Guyton Das New Yorker Atelier

※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。もし間違いを発見された場合は、お手数ですが 山田はじめ のTwitterアカウントへご指摘を頂けると助かります。

前書きと補足

この記事はドイツのブランドホルスト美術館で開催されたウェイド・ゲイトンの展示、Das New Yorker Atelierのカタログに収録されている、ミュージアムディレクターのJohanna Burton(ジョアンナ・バートン), キュレーターのAchim Hochdörfer(アキム・ホッホデルファー)によるWade Guyton(ウェイド・ゲイトン)へのインタビューである。
なお、展示タイトルである Das New Yorker Atelier(NYのアトリエにて)は、ハンス・ヤコブ・オエリ(Hans Jakob Oeri)の絵画、Das Pariser Atelier ,1807 (パリのアトリエにて) からの引用である。

プリンターによってミニマルな抽象画を制作することで評価を得たウェイド・ゲイトンだが、近年はスマホで撮ったスタジオの写真、いつも読んでいるオンラインのニュースサイトなど、身近なイメージをモチーフとして使用することへと作風を拡張している。
アナログ / デジタル、手仕事 / 機械、一回性 / 複製可能性 といった相反する要素をひとつの絵画へと接合させてしまったウェイドだが、この新作では更に 具象 / 抽象、写真 / デジタル画像 / 絵画 といった要素までもが衝突している。この展示はそれらの新作がまとめて展示されるはじめての機会であり、以下のインタビューでも、その作風の変化に対する質問と深掘りが行われている。

AH(アキム・ホッホデルファー): 僕らの席の前には、ここ10〜12ヶ月間に制作されたペインティングが重ねられているね。

WG(ウェイド・ゲイトン): 2017年1月から展示がありますからね。この2年間で制作した絵画を展示しますよ。

AH: それは全部同じテクニックとプリンターを使って白いリネン生地に印刷したもので、、、あれっ、このプリンターって新品?

WG: いいえ、ここ数年使ってるプリンターと同じEpson 9900ですよ。使ってるテクニックも同じだし、リネン生地も同じです。

AH: この新作絵画をこのスタジオで初めて観た時は驚いたよ。いや、サイズも以前のシリーズと同じ(84*69インチか128*108インチ)だけど、全く新しい領域の扉を開いてるね。
以前の君の絵画では主にミニマルな記号や模様、例えばストライプ、XやUの文字、モノクロームな色彩などに焦点を当てていたけど、今回は3つの新しいイメージ生成方法が追加されている。スマホのスナップ写真、PC画面のスクショ、そしてそれらをズームした画像を使う、という方法だ。君はそれぞれのフォーマットで新しいテーマやモチーフを扱いはじめている。
1つ目は、スタジオで撮ったスマホの写真を使ったもの。例えば、モノクローム絵画の前にマルセル・ブロイヤーの椅子を壊して作った彫刻作品が置かれている写真、スタジオの床、スタジオの窓から観たNYスカイライン、そしてスタジオのキッチンにいるアシスタント達を撮った普通の写真などを扱っている。
2つ目は、NYタイムズのホームページやいろんな商品広告のスクショを使ったもの。そして最後の3つ目は、ビットマップ形式の画像を拡大した新しい抽象画のシリーズだ。

JB(ジョアンナ・バートン):アキム、あなたが議論したいのは、このモチーフとフォーマットがウェイドの初期作品とはまるっきり違うってことですか?それとも最近の作品の方向性が新境地を開いている、ということですか?

AH: どちらとも言えるかな。これって以前の制作方法からズームアウト、もしくはズームアップしたような手法だからね。どちらにせよ、この手法はデジタルファイルの扱い方を解剖学的に掘り下げていくことで見つけたものだし、どのアプローチもデジタル環境における画像作成の論理に基づいている。
それは既に過去作にも通底している方法論だから、これ以上は発展しない様にも思えるね。ウェイド、君はその人生においてデジタルコードが急速に拡張・派生していくのを横目に生きてきたと思うけど、君にとっては、朝起きてからニュースサイトをクリックすることや、スタジオの窓からみた風景やキッチンでの談笑風景をスマホで撮ることは等価値なんじゃないか?

WG: 私的には、この新作は新しいと同時にいつもと同じって感じです。私は自分の作品はどこか写真的だと考えていました。スキャナーはイメージや物質をデジタルファイルとしてインポートするための機械だけど、プリンターはもともと写真の暗室現像の代わりに発明されたもので、プリンターによって写真の現像は工業的手法に乗っ取られました。私がこのテクニックで絵画を描き始めた当初は、このプリンターも本来の使い方である写真のプリントに使っていたんですが、ある時期からプリンターの本質意外の部分に注目し始めたんです。

JB: ええ、あなたはアナログのロジックをデジタルに適用、あるいは逆にデジタルのロジックをアナログに適用しています。実際、写真の工業化は時代の変化によって起きた技術発展の良い一例です。
繰り返しになりますが、プリンターが必要とされている領域が急速に変化しているために、プリンターはもともと写真印刷の為に設計されていた、ということすらも世間から簡単に忘れられているのです。 でも忘れてはいけないのは、プリンターには文字を印刷するために発明された側面もあるってことです。この機械がイメージと文字を本質的に同じものとして扱っていることは重要ですね。

WG: ええ、私もテキストとイメージに大差はないと考えています。でもこのエプソンのプリンターは、特に写真現像の代わりに存在してるって感じですよね。

JB: ええ、アナログからデジタル化されたイメージを、さらにアナログへと転写してますからね。 ここで君にひとつ質問があります。君が作品制作にプリンターを使い始めた頃……あまり絵画的でなかったり、絵画としては失敗している作品を作っていた時期の事です。君は下地処理してないリネンをそのまま使ってましたが、それは伝統的な絵画では滅多に使われない画材です。
君はプリンターが本来持っている写真的・非絵画的要素に反して、絵画的な要素を引き出そうとしていました。最終的にそれは現在の絵画としか呼びようのない作品へと発展していったけれど、君の絵画は根本的に常に矛盾を抱えています。たとえ見るからに絵画だったとしても、それは写真なんです。そして明らかに写真だけど、身体的でもある。
ひとつの作品上で2つの言語が混じり合ってるような状態ですが、今回の新作ではその文脈がしっかりと視覚化されていません。君の場合は制作というより制作管理と言った方が適切なのかもしれないけれど、10年前と比べて現在の制作手法は変わってきていますね。君の最新作は今まで制作してこなかったタイプの作品です。それは君の中で、何が絵画を絵画たらしめるのか、そして何が写真を写真たらしめるのか、という事に対する考え方の変化があったからじゃないですか?
君の作品の最も興味深いところは、それでも世間では広く絵画であると認識されていることですね。鑑賞者の価値観をテストすると同時に書き換えていると言えます。

WG: 私がNYタイムズ・ペインティングで気にいってる点は、その作品がスタジオにある他の絵画を相殺することです。例えばモノクロームの絵画の横に置くと非写真的な側面が際立ってきて、鑑賞者はそこに絵画的な要素を見ます。作品間のせめぎ合いを感じることができるんです。 絵画を並置する事で各絵画の本質が見え易くなり、文字が絵画においてプラスにもマイナスにも働くことが分かります。全てを不安定に感じさせるんですね。このように、この新作に過去作を蔑ろにする要素が組み込まれていることは重要だと思っています。

AH: 作品上で絵画と写真の相互作用が発生しているわけだ。それにスナップ写真やスクショをそのままプリントした新作の中には、画面上のインクの滲みのせいでなんだかフォトリアリスティックな絵画に見えるものがあるね。

WG: ええ、たまにインクが多すぎて水彩画みたいに滲んだビショビショな画面になるんです。

AH: でも、いい感じのブレやインクのドリップみたいな絵画的な要素が合わさると、かえって写真的な印象を受けるよ。君はプリンターをキャリア初期から使っているけど、以前の君は画面表面に発生する物質性に暗喩を込めることへ意識を割いていた。けど、現在の幅広く画像を引用する姿勢には曖昧さを感じる。

JB: あなたの意見を否定したいわけじゃないけれど、私としては本来の抽象画らしさが減って“抽象画的”な作品になり、アナログな物質感がデジタルによって強化される、という新しい方向性の作品になっているのだと思います。
例えば私は今週末に紙のNYタイムズを買いましたが、その色は印刷のノイズのせいで抽象的な感じになってました。私の記憶が正しければ、数年前に新聞の印刷技法が変わって以降、カラー画像の印刷費が安くなる代わりに、グリッチという新しいタイプの印刷ミスが紙面に発生するようになったのです。
今やNYタイムズのカラー画像はとてもデジタルな要素によって描写が歪んでいる訳ですが、それでも紙の上に印刷されていることで水彩画っぽく見えています。

WG: この作品の理論を思いつくということは、印刷時のインクの垂れなどの、いわゆる失敗を受け入れることを意味していました。自分的にはそれがやり過ぎに思えることもあったんですが、鑑賞者はそこに絵画としての良さを感じてくれたんです。でも、私は今までも細部に注意を払って制作したことなんて一度もありませんよ。基本的に私は、絵画らしい制作方法が面倒くさかったんです。その頃の私の興味は別のこと ── もっと適当になろうってところにありました。

JB: それって君の新作のことじゃないの?

WB: いや、この新作と同じようなスタンスで昔からやってるんですよ。

AH: 新しいスナップ写真の絵画のなかに、イスのフレームをひん曲げた彫刻作品が初期のモノクローム絵画の前に置かれてる写真が使われてるものがあるけれど、あの写真は気まぐれで適当なのにすごく良いなと思った。わかりにくいけどあれは明らかに、新しいタイプの作品への飛躍だと思う。でもこのモチーフを深掘りしようとするとややこしい。これは旧作が活かされているというよりも、文字通り画面上に旧作が印刷されているからね。
でも、そのカジュアルなスナップ写真は予測不能で意表を突いたイメージだ。どこにでもあるような何気ないコミュニケーションの中で循環している、新しいタイプのイメージを使っている。例えばメールで送るような写真や、ツイッターやホワッツアップに投稿するような写真に近い。いたるところに存在するこの手のイメージは、何気なくて親しみやすい印象を見る者へ与えてくれる。

JB: ここに写っているねじられたマルセル・ブロイヤーのイスは、もちろんウェイドの彫刻作品です。(2000代中盤より制作しているAction Chair sculptures シリーズ) このイメージは作品にパラドックスを生み出してます。これが自然体のスナップ写真、恐らく沢山撮った内のひとつであるってことはすぐに分かりますが、一方でなぜこの写真が選出され、しかも絵画として何枚も印刷されてるのかはよく分かりません。
それは建前上の無作為性と言った感じなので、偶然性を利用した歴史的名作に用いられている技法との関係性は低い。この画像のどこに繰り返すほどの重要性があるか分からないけど、何度も何度も再制作することで必然的に重要性を帯びている感じがします。自ら再制作するということは、そこに意図と目的があるということで、偶然性や無作為性とは全くの正反対の意味を持っています。
私は9/11の事件当初の議論をはっきりと覚えているのですが、ツインタワーが標的に選ばれたのは、2度繰り返すことが生み出す強い象徴性を利用するためだ、と多くの人が推測していたんです。 1機の飛行機がひとつのタワーに衝突した場合は事故だと思われるかもしれない。でも2機の飛行機が2つのタワーに衝突したのなら、それが事故であるはずがないのですから。

本題に戻りましょう。アキム、これはあなたが指摘した事だけど、このスナップ写真が持っている軽い雰囲気は、何度繰り返し制作しても維持されたままになっています。

AH: ああ、このモチーフは制作の新しいロジックを構築している。また、このデジタルなスナップ写真は、タブローの形式に落とし込まれることでより良くなっている。絵画史の持つ力によって、スマホで撮られたスナップ写真が象徴性を帯び、新しい“現代的生活を捉えた絵画”として、記念碑的な作品へと強化されている。
また別の見方をすれば、下品さのインフレもアートにおいては伝統的に行なわれてきたことだ。この作品はジェフ・ウォールとダニエル・ビュレン、もしくはリチャード・セラとウォルフガング・ティルマンスを組み合わせた様な感じだね。様々な矛盾が内在していることで緊張状態にあるけれど、その相反性には遊び心も垣間見える。

JB: この録音を始める前、“苛立ち”という言葉が思い浮かびました。この言葉を議論に持ち込んでみたいんですが。私達が話しているのは新しいロジックやシステムに関する話というよりは、既存のロジックやシステムを苛立たせることについてなのかもしれません。つまりウェイド、君の作品は正反対の要素を、何の折衷案も無いまま鑑賞者の目の前にぶら下げるから、とてもイライラする作品なんです。作品の魅力も不調和と不安定の上に成り立っている。
その一方で画面の安定した構図は鑑賞者を安心させると共に作品をまともな絵画として成立させ、モダニズムっぽさを生み出している。でもそのまた一方で、明らかに充実感を分散させてしまっている要素、少なくとも充実感の根元を侵食している要素が目に付きます。
そのハチャメチャな絵画をなんとか調和させている治療法、つまり反復は、過去の美術史の中でも当然ながら既に利用されているものです。だから君の作品における反復の持つ役割は予測可能過ぎてとても退屈です。君の作品では基準化された方向性と手順がそのまま視覚化されているけれど、で?マジで何?(笑)って感じがします。だからイラつくんですね。反復とは、皮肉交じりの機械的手法といえますが、革新的だったのは昔のことです。
それに、このブロイヤーのイスを愚直に脱構築した彫刻には無様さと優雅さが共存していて、君の制作手法に常に関係している要素、一種のやり過ぎが視覚化されています。

WG: それこそ私がその写真を使い続けている理由です、だってその作品は、、、良く分からないけどなんだか会心の出来なので、確かな充実感を与えてくれるんです。とはいえこの作品は自分としても謎で、なんで良いのかまでは全然分かりません。

JB: 実際、そこにはなんの新事実もありません。

AH:いや、その作品はスマホのスナップ写真が持つ潜在的な可能性の扉を開いている。

WG:どちらとも言えますね。ここでいう潜在性、つまり全てがモチーフとして利用できうるという考え方は、前々から私の作品へ常に組み込まれてきたことですから。つまり、このイメージは使われるべくして使われている。変形されたイスのフレームが絵画をバックに立っていますが、その存在感は画面上でも残っている。
でもそれは実物の彫刻とは違った性質になっていますし、他の新作に使われている ニュースサイト、床、グリッド、その他のスナップ写真とは違った存在です。

AH: この椅子の絵画だけじゃなくて、スタジオの床や窓から見た風景を撮った写真もそうなんだけど、全てのモチーフがこのスタジオを参照したものだ。
アーティストのスタジオは美術史の中でも古典的なモチーフで、作家の自己投影の象徴としてよく使われて来たものだ。けどウェイドの場合、スタジオは単に作品を制作する場所ではなく交流の場でもあり、そこがその他大勢のアーティストのスタジオとは違うところだ。

私が思うに、このスタジオの雰囲気は独特で、それは新作にもなんとなく反映されている。このスタジオはNYはマンハッタンのバウリーにあるロフトに設けられていて、元々はアーカイブ、ライブラリー、オフィス向けの通常施設だ。 そこにあるキッチンは、ここで働くアシスタント達のミーティングスペースでもある。
そしてそのど真ん中にある広いオープンスペースにはプリンターが置いてあり、その右横の長い壁には何枚もの絵画が立て掛けられ、絶えず行き交っている。このスタジオでは様々な要素が融合していて、君が一体どこで“創造的行為”をおこなっているのか判別不能だ。
コンピューター上か、プリンターか、キャンバスが敷かれた床か、作業の痕跡が画面に刻まれているときか?いやむしろ、フレームに張ったキャンバスを壁に立てかけて、眺めたりいじったりしている時だろうか。今回の新作に関しては、その制作プロセスと使っている機器の全てに創造性が埋め込まれている様に感じるけれど。

WG: ここ数年はこの展示の為に大量の作品を制作、または再制作していました。この作品群には制作空間であるスタジオの持つ圧力を閉じ込めたんです。最近は展示に関すること以外のほとんどの時間をこのスタジオで過ごしています。だから作品にもその状況がなんとなく反映されてるんだと思います。

JB: 君はそのスタジオの写真、というか記録集の様なその絵画と画像を観た鑑賞者が、自分の意図を理解してくれると思っていますか?制作空間と社交場を兼ねているこのスタジオは印象的だけれど、それを使うことに必然性は無いと思えるのですが。その写真の中には絵画があるのに、明らかに空間的・建築的な印象を受けます。だけどその空間には奇妙な事に、几帳面さと所在なさが同時に表現されている。
もし君がこのスタジオにずっといたなら、この組み合わせの妙には気付いていたはずです。これらの写真を使った絵画の数点をこのスタジオで見たとき、重ねられた沢山の同じような絵画を見ましたが、デジャブというか、無限に逆走していくような印象を受けました。この新作は、瞬時に文脈を読み取れる様な構造にはなっていない。おそらく、君は自分の見ているものに好奇心を感じているけれどうまく文脈化できていないのだと思います。この写真の背景は平面的だから、どこまでが壁でどこからが壁に架けられている絵画なのか分からなくなっているものも多いですね。でも私はこう考えます。この作品において考察に値する興味深い点は、視覚的な読み解きやすさとは関係がない。
”制作手法が視覚化された作品の展示風景を写した写真を使った絵画”であるために、もはや本質がどこにあるのか分からなくなってしまっているのが面白いんです。
この作品は具象的だけど、あえて理解しにくくするために何か工夫してるんですか?君が何を観ていて、そこから何を読み取っているのか、私には全然分かりません。この分からなさも作品の狙いの一部なんでしょうけど。でも、この作品にだっ世間の評判や市場での受けに対するウェイドの配慮は必ず入っているはずで、価値を生み出すために作品をつくっている、という側面は間違いなくある。その視点から見れば、この画面上に印刷されている情報の意味を知ることはとても重要なはずです。でも実際には、情報の理解を阻むバリアーが張られている。

ウェイド、私は君がアトリエのタイル張りの床を撮った写真だけが掲載されている本を作ったときのことをよく覚えてます。大量の情報が詰め込まれた良い本だったけれど、その日の終わりには内容なんて忘れてました。覚えていたのは、本の中身は全部フロアータイルの写真だった、ということだけです。

WG: Zeichnungen(ツィクヌンゲン:ドイツ語でドローイング)の本のシリーズのことですよね。

JB: 君のZeichnungenシリーズはとても良い例ですよ、“ここには全てがある!でもお前に伝える事なんて何も無い!” って感じ。分かりますよね?ウェイド・ゲイトンの取扱説明書みたいなんです。

WG: 確かに。この Zeichnungenの本は、スタジオにあるキッチンのフロアに置いたドローイングを撮ったものですね。また、このシリーズはルートヴィヒ美術館からの大きな絵画と対比してドローイングを展示したい、という要望に答えて2010年に制作したものです。そこで撮影したドローイングにはペインティング的ではないものを選んでいます。

JB:  これは興味深い作品です。だってみんなはその展示方法だけじゃなく、言うなれば制作の原点に触れるというか、制作現場の裏側とでもいうべき要素も気に入っていたようでしたから。また私達としては、君の作品は説明的かつ象徴的であることを更に超えて、作品に解釈の幅を与えることを拒絶している様にも感じますね。鑑賞者が君の事を知っている時にだけ理解できる、という程度に。
例えば、ブロイヤーの椅子の作品はとても重要な役割を担っています。でも、目的に基づいた役割を担っているというよりは、どこにいってもつきまとってくる感じです。ここにもある、またここにも!という感じで。時を超えて自分自身の物質的な存在感を主張してくる作品なんです。それは大した敬意も、想像力もなく扱われている。絵画の前に置かれたこの無様で中途半端な彫刻作品は、まるで小道具か残骸のようです。

あるいは、この作品は君の作品に関する何らかの手がかりなのかもしれません。でも、ガイトンがブロイヤーのイスを作品に使いがちということぐらいは、10年前の解説文ですでに読んでいますけどね。ある意味で、この作品はまるで犯罪現場の様に、我々の意識を今・ここに惹きつけているのです。

WG: ええ、それにフロアー・ペインティングも同じように痕跡と言えます。アーティストが実際にそこに立ち、いつも見ている床であり、プリンターから吐き出された絵画が置かれている床でもあります。文字通りの意味だけでなく、演劇的な意味でも痕跡が残されているんです。

AH: 床のモチーフには、水平と垂直にまつわる絵画の歴史が引喩されているね。

JB: まさしく。わたしがこれらの絵画がどう作られているか初めて知った時(キャンバスを折りたたんで大型プリンタにぶち込み、片面ずつ印刷する)、すぐにラウシェンバーグが1953年に制作した自動車タイヤでプリントした作品を連想しました。私が思うに 、“どうやって作るか?” または “どの段階で作品は完成するのか?”という問題にこの作品は接触していて、絵画の垂直性に対して本質的・根源的な挑戦を仕掛けています。垂直性の純粋さに水平性をいかに忍び込ませるか、という実践は未だに取り組まれ続けてていますし、今や絵画の伝統のひとつになっています。たまにウェイドのスタジオに行くと驚くのだけれど、プリンターから未乾燥の絵画が吐き出されると、そのまま汚れた床に着陸して、画面に床の汚れが付いたり引きずった跡が付いたりしてますよね。それこそが彼の絵画制作における肝心な部分だとは知っているけど、やはりギョッとしますね。
それに、レオ・スタインバーグがいうところの “フラットベッド・ピクチャープレーン” 的なウェイドの制作方法に関してもっと指摘すべきなのは、ペインティングとプリント、一点物と複製品の区別を曖昧にしてしまう、ということですね。

AH:そうだね。絵画、写真、印刷の相互作用に対する取り組みは、ピカソからラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズやゲルハルト・リヒターまで、モダニズムの中で長い歴史を持っている。アーティストたちは常に複数メディア間の移動や相互作用に対して敏感に反応して、メディアの概念をずらそうとしてきた。だが1960年、絵画は当時支配的だった美術批評の考え方によって集中砲火を浴びた。

JB: その当時の価値観に基づいた展示空間や絵画を未だに守り続けている人々もいるようです。そして、ウェイド、あなたはいま話したような絵画に興味がないと明言しているけど、実際には絵画としか思えないような形式やスタイルを選択している。そして、とても曖昧な作品であるにもかかわらず、ライター、キュレーター、コレクターといった人達は君の作品を絵画であるとみなすべきだ、と強く主張しています。自分たちの利益のためにも、この絵画を守ってくれと要求しているのです。
“絵画”という専門用語が、ウェイドの作品と実践を、他のアーティストや思想家と結び付けているんですね。とはいえその親和性は彼の初期作品よりも低く、他の繋がりはない。

アキム、あなたが現在ブランドホースト美術館で共同キュレーションしている展示、Painting 2.0:Expression in the Information Age に人々がとても関心を示している理由のひとつは、絵画が存在論的なオブジェクトではなく、意味論の触媒となってきていることを証明しているからだと思います。その動向には興味をそそられますが、またこうも問いたい。もし絵画よりも優れた表現形式を創造することができた場合、それを引き続き絵画と呼ぶ必要なんてあるのでしょうか?なぜ絵画と呼ぶことが我々によって重要なのでしょうか?

AH:私が思うに、ジョルジョ・ヴァザーリ以降の絵画は、この世で最も雑然とした理論関連の議論の上に存在している。モダニズムの歴史全体(エドゥアール・マネから抽象表現主義まで)が、主に絵画 (彫刻や写真とは異なるものとしての絵画) の発展の歴史だった。この歴史的優位性があるからこそ、ブルジョア主導の概念付けと価値付けに反発する議論が60年代に絵画の領域の内外で起きたんだ。
それに、絵画からパフォーマンス・インスタレーションまたはその他のハイブリッドな形式が成立した幾つかの筋書きが存在するとしても、私はロザリンド・クラウスの名文の一部を引用してこう言いたい。“拡張された場における彫刻”は、絵画の概念と関連付いたときにだけ、その象徴力を増幅させることができている。
絵画の専門用語を別のジャンルの作品に転用しているアーティストたちの歴史をなぞってみるのもいいだろう。だが今言及したようなことは、もっと別のタイプの作品で活発に応用され続けた。例えばクレス・オルデンバーグの陳列棚の作品やソフト・スカルプチャー、ロバート・モリスのパフォーマンス、リチャード・セラの鉄の彫刻などだね。
私には、結局のところ彼らは彫刻の歴史に基づいたことは何もやっておらず、絵画の理論を現実空間に拡張しようとしたのだと思えるんだ。80年代から90年代にかけて、より明確に絵画を超える、もしくは絵画を破戒するという試みがなされた。それは上手くいかなかったが、絵画に関する議論を拡張し、より豊かにすることはできた。故にわたしは、この伝統的な絵画というジャンルの記号論を参照することは避けて通れないと考えている。

WG:私にとってその質問は、どうすれば何かを解読可能なものにできるのか?それをどうすれば視覚的なものにできるのか?どうすればモノそれ自体が語り出すようにできるのか?そのときどんな言語が使われるのか?そして鑑賞者はどんな立場からそれを知覚するのか?という疑問につながっていきます。関係ないはずのもの同士を結び付けることは、自分の作品で実際に達成できていると思います。自分の作品がどうやって絵画として展示され、絵画論の議題になるのかを見るのは興味深いですね。
その様子に満足することもあるけれど、時には自分の作品たちが “ホントは俺たち絵画じゃないんだよ?” って語りかけてくる様に感じることもあります。

AH:君がその技法で紙の作品を制作し始めたのが2002年で、最初の“絵画”を制作し出したのが2003年だよね

WG: 最初期の作品は2004年ですね。

AH: その頃はまだその作品が絵画の議論を前進させるかも知れないな、と “疑われていた” 時期だね。その頃はポストモダニストの “絵画の終焉” 宣告を除いて、絵画に関する真面目なエッセイが書かれていなかった時期だ。それに絵画の終焉は、目的論的を叙述するために使われていた言葉だ。だが2000代初期になると、論争、イデオロギー闘争、理論に関する議論、これら全てが突然この話題に興味を持ち始めた。
私はウェイドの初期作品がその絡み合った系譜にスポットライトを当てたからだと思う。モノクローム、ストライプ、Xの文字などで構成された最初期の絵画は、まさに “絵画の終焉” という話題に関連したものだった。だがそれはスタートポイントに過ぎなかった。なぜその作品が絵画という枠組みの中にあっては駄目なのか?なぜその作品は既存の絵画の概念と衝突し、“絵画の終焉”という言葉をまた呼び起こすのか?まるでウェイドが “絵画の終焉” という名の猛牛の角をつかんでねじ伏せているかのようだった。

WG: わたしが2000年代初めの頃で覚えているのは、まだ人々が絵画を批評的には否定していたということです。私もそのような姿勢でした。でも同時にこうも思ったんです、“我々はなにをそんなに恐れているんだろう?”と。確かに絵画は、消極的で回帰的な表現に使われ過ぎています。
でも、張られたキャンバスに恐れを抱く必要がどこにあるんでしょう。画家になることにマジで興味がないからこそ、 繊細さを欠いているけれど間違ってはいない現在の方法で絵画の制作を始めることができたのだと思います。そこには絵画に対する感情的な愛着はありませんでした。

AH: そうだね、絵画という概念は過剰にガチガチに定義されていた。それが有用な面もあったのだと思うが、その膨張した概念はしぼませるか、放置して逃げ出すしかやりようがなかった。

JB: ウェイドの作品に関する批評記事を書き始めたとき、私はあなたが今語ったような議論の歴史を直接的に引き継いでいるとは感じていませんでした。
アキム、私はその絵画の終焉に関する議論に参加するためにNYへ来たのだけれど、それは私が慣れ親しんできたものではありませんでした。つまり、このテーマや私が今まで参加した批評的な議論は、私の個人史とは関係ないものです。もちろんそれを語りたいと強く望んだのは私ですが。ウェイドと私の初期の議論は、我々が共有してきた 歴史を求める歴史 についてでした。
そして遅ればせながら、この場所でこの議論の歴史を深く、素早く経験していったのです。ですが、最初の時点で何かを見落としていることがアドバンテージになることもあります。ウェイドは探求していることの答えがとてつもなく遠くにあると気付いたときにとても落胆していたようですが、一方でそのことがウェイドを開放したようでした。私にはそれがまるで絵画のエンドゲーム(詰め将棋)のように見えていました。
私は絵画を通してアートに触れて来たのではありません。初めはパフォーマンスアートや批評理論から入ったので、私にとって絵画は重苦しくなく、楽しい手法という印象でした。私は絵画がどの様に、なにを意味付けしていくのかを徐々に理解していきました。また、初期にウェイド作品に関するテキストを書いていたときは、私はむしろ政治的主義、クィア理論、遂行性などについて考えていました。ウェイドの作品を観ることで、それらが自然に脳裏に浮かんできたのです。そしてどんなときに絵画はその一部に接触するのかも考えていました。
当時の私は絵画について考えるとき、パフォーマンスアートの色眼鏡を掛けて、絵画批評の歴史的側面から解釈していました。例えばブルース・ナウマンが自分のスタジオで行ったパフォーマンスなどを参照して。そこから遡る様にして、ナウマンや他のアーティスト達が取り組んでいたモダニズムというものを理解していったんです。
でもそれは後になってからの話です。つまりわたしは、自分が受け継いだ“エンドゲーム”の物語がどれほど重要なのかを後から理解していったのであり、それは自分の心の奥底から掘り起こしたものではないということです。
だからわたしは勉強の過程で、今まで考えたことも無かった自律性や純粋性などについて考える方法を学ぶ必要がありました。それらは分かり易く書かれたテキストを読むことで習得していったのですが、私はその勉強過程が、伝統の継承というよりはゲームのルールを学ぶという感じに思えてとても好きでした。

AH: 振り返ってみると、私にとってもゲームみたいだったな。でも90年代後期から2000年代前期ごろまでのオクトーバー誌を読むことは、まだ伝統の継承という感じだった。もちろん、イヴ・アラン・ボア、ベンジャミン・ブクロー、ダグラス・クリンプ、ロザリンド・クラウス、ハル・フォスターらの文章を読むことには魅力されていたけれど。
オクトーバーの次号をいつも心待ちにしていて、届いた瞬間に読み尽くしていたことを覚えているよ。同時に私はその内容に強い反抗心を持っていたが、それはその理論に対するものではなかった。私は彼らの“エンドゲーム”における絵画の歴史的終結という理論を聖典として受け入れていたよ。

JB: それに実際、今もオクトーバーはとてもパワフルで非常に興味深いですよ!

AH: ああ、でも同時に、私は彼らの歴史に対する見解や、ウォルター・ベンヤミンやその他の哲学者の記事に疑問と異議を抱えていたんだ。だからかなり長い間読まなくなってしまった。例えばダグラス・クリンプは、ベンヤミンが単純にアウラを無くそうとしているのだと主張したが、これ以上の間違いはない。
なぜジャン=フランソワ・リオタール、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダ、ローランド・バーテスといった哲学者は、彼ら自身の目的に反して絵画の終わりを提唱しなければならなかったのか?また、写真ではアプロプリエーション戦略は許されるのに、絵画で禁止されるのはなぜなのか?若い世代はもう、これらの論客たちの話を理解できないのではないか。だが、この支配的な話題であった絵画の終焉問題と“批評的な”記事の闘争は、2000年代初期においても非常に重要なものだった。

JB: でも、私にとって説得力を持って響いたのは、その議論における純粋な熱量の強さでした。つまり、彼らはある面では全てが間違っていて、同時にある面では全てが正しかったのです。
その論調は生か死かの極論にも思えたけれど、とても印象的だったんです。私が最初にNYに来たのはその議論に加わる為だったので、すかさずこう質問していました、“逆に、我々はどうすれば交換可能なものや、もう一度起こせる出来事をつくれるのですか?” と。

AH: 私にとって、ウェイドの作品は美術史を紡ぐ上でとても重要だ。なぜならその作品は絵画の終焉にまつわる物語とそれに対する反論を可視化したからだ。絵画の中ではより明確に、その背反する要素がインパクトを失うことなく均衡している。

JB: わたしができたのは── ウェイド、これはあなたにも当てはまることだと思うけど、自分か継承した絵画の終焉の議論へ接続するために、その考え方を無差別に色んなことへ適用することでした。
私はその議論に参加していた全ての論客の言葉に納得していましたから!まぁ、彼らのテキストのほとんど全てを読み終えた頃には彼らの矛盾にも気づきましたが。トーマス・ローソン、ハル・フォスター、ロザリンド・クラウスなど ― 私は彼ら全員の発言が等しく説得力があると感じていましたが、こうも思ったのです。“でも、どうすれば彼らの言っていることを等しく信じることができるのだろう?”と。なぜなら彼らはお互いに対立し合い、本質的に他者と真逆の姿勢を取っていましたから。ボイスの言っていることには納得できる!でもクレメント・グリーンバーグにも納得できる!といった具合に。
ですから、時間と歴史を掛けて積み上げられたこれらの議論を、時代錯誤にも一度にまとめて継承しようとしたならば、彼らの個々の意見を更に発展・進展させるというよりも、全体的にふわっとした感じで受け継ぐことになるのです。ですが、彼らの意見を同期させることで、何か新しいものを産み出すことは可能です。実際にウェイドの作品にも、モダニズム的な思想の中に目的論に逆らおうとするポストモダニズム的な側面があります。それはグリーンバーグのテキストとも、マイケル・フリードの反応とも、クラウスやクリンプとも違う。我々が彼らの思想を学んだかどうかが問題ではないのです。美的な達成としてのウェイドの作品をどのように捉えるべきか、という点が問題なのです。

AH: わたしもそれに全面的に賛成するよ。思うに、それは2000年代中盤に“ニュー・アプロプリエーション”と呼ばれていたものだ。アプロプリエーションアートは、皆の興味を制度的な批評から作品の概念へと取り返すことに成功した。それは自己批評的で、ともすれば自己退廃的な概念を抱えた、自己矛盾している作品だ。
だからこそ“リニュード・アプロプリエーション”(更新された盗用の手法)は様々なもの ― 真逆のものさえ接合してしまうには完璧な方法論だった。批評的議論の動向と策略に自覚的である事で、ウェイドは フォーマリズムとアイデンティティ・ポリティクス、モダニズムとポストモダニズム、写真と絵画、といった様々な相反するものを接合することができたんだ。もちろん、この全ては新しいデジタル・テクノロジーとWeb 2.0 の発展がきっかけとなっている。

JB: わたしはそこで行き詰まりを感じたんです。そして特定のフェミニストや、クィア理論の方向性を継承することを選びました。 その2つは、普遍的な考え方やなし崩しの服従と戦っているものでした。
ご存知の通り、アートワールドの構造は常に、ヒエラルキー構造や、白人男性の異性愛者が中心を担ってる、という本性を隠そうとします。ですが現在、わたしたちは戦いを超えて、大手を振って普遍性を主張する者が誰もいない時代へとたどり着きました。

AH: NYタイムズ・ペインティングのシリーズと、それを抽象化した“ズーム”ペインティングに関する話へ戻ろうか。これは両方ともデジタル空間とは何なのか、どう捉えることができるのか、といった、デジタル空間という概念に関する作品だね。それに、このニュースペーパーの絵画はモダニスト絵画の方程式に基づいて成立している。
ラウシェンバーグ、アンディ・ウォーホル、ラリー・リヴァース、そしてローラ・オーウェンズへと繋がる方法論だ。キャンバスを用いた絵画の伝統が、情報産業で用いられるありきたりなレイアウトの形式に擬態しているんだ。それと同時に、NYタイムズ・ペインティングは君にとっての政治的な主張でもあるのかな?

WG: 多くのアーティストがNYタイムズを使っていますから、それを利用するのはただ “デフォルト” として、慣習に従って使っテイル感じです。これは“記録の紙”です。私は様々なオンラインの情報源から沢山のニュースを読むことでよりしっかりと政治を学んでいるつもりですが、この作品に個人的に興味のある記事を過剰に反映するのには懐疑的だったのです。
ある意味、それは常にスタジオの外側である都市と世界に関するニュースです。そのページが定期的に更新されることで、記事の見出しと広告が一日中、私の視界と生活空間に流入し続けてくるのです。ページが自動更新されることで、表示されるコメント、ストーリー、市場情報、広告も変わります。去年は作品を制作している間に沢山の恐ろしい出来事が起きました。それでも更新されていくウェブページは、すぐに事件を忘れ去っていく我々の記憶のようです。絵画や他の作品でこのような記憶を扱うことができるでしょうか?もちろんニュースのスクショは画像であり、抽象的な情報といえますが、その暴力性はインターフェイス上で表示されている時点で既に編集され、抽象化されています。また、毎日のようにこれらの画像や作品化された情報がわたしの物質的な空間へとやってくることは、何を意味するのでしょうか?

AH: それに、新しい抽象画についてはどう考えてる?

WG: グリッドのビットマップ画像の作品ですか?6年前、わたしはビットマップ画像のファイルを使って絵画を制作しはじめました。新しく買ったプリンターはより優れた、より多くのインクを使用できるものだったので、当然 “より良い写真” を生み出せるものだと考えていました。でも、私の好きな感じの曖昧さを表現することができなかったのです。そのマシンはリネン生地にインクを置きすぎて、絵画が余りにもグジュグジュになったんです。
なのでビットマップ形式によって画像ファイルを圧縮し、情報を削除することで画像に余裕を挿入しました。つまり、キャンバス上のインクの点の間に隙間を産み出すことで、インク量を適切な量に抑えることができたのです。

JB: テクノロジーは常に変化していますが、それは“非可逆圧縮”と呼ばれるものですね。その画像は“圧縮されたもの”と言えるでしょう。私がその専門用語を知っているのは、ティム・グリフィンが数年前にオクトーバー誌でそれに関する記事を書いていたからです。それは視覚的に重要ではないと思われるデータを削除して、より保存や送信をしやすくするための技法ですね。

WG: だからその画像は、隙間がたくさんあるはずなのにちゃんと解読可能なんです。

JB:画像の見た目は同じかも知れませんが、少なくともこのテクノロジーでは画像の情報が確実に失われています。現在はデータを消さないタイプのデータ圧縮アルゴリズムも存在するんですけどね。

WG: また最近は、そのビットマップ形式の画像ファイルをズームして、拡大した状態でプリントしています。

JB:私は真正面から画像の本質を問おうというその姿勢が好きですよ。ペインティングがその内側から侵食されるとき、何が起きるのでしょうか?

AH: ウェイドの絵画へのデジタル空間の導入は、伝統的な絵画の物語をひっくり返しているかのようだ。ベンヤミンのエッセイ、“Artwork in the Age of Mechanical Reproduction”(機械的複製の時代における芸術作品)を見てみよう。ペインティングは産業化以前のもので、人体と精神を通して経験した視覚体験をキャンバス上に変換する模倣手段であると見なされている。
一方で写真は産業化された社会における発明品で、その循環には機械が関わっている。それは冷たく、抽象的で、非人間的なものだと見なされていた。だがその考え方は突如として古びたものとなった。2000年代初期に、アナログ写真用のフィルムの大量生産が終わったのだ。そしてデジタル化がこの複製産業を席巻した。この文化的な転換の結果、このアナログなテクノロジーはフェチシズムを手にしたんだ。
レコードで音楽を聴いたりアナログの写真を撮ることは、突如として温かみがあり、人間的な感じがするようになった一方で、CDの音は I と O のコードへと抽象化されていることで冷たい印象を与えた。そして写真の“模倣”の性質に関する理論が生まれたことで、アナログ写真の色彩の幅は“自然の”色をそのまま映し出すものとしてもてはやされた。
このような状況全てが、ペインティングを産業化以前の時代遅れな表現手法という位置付けから解き放ったのだ。アナログ・ペインティングからデジタル・ペインティングへの転換という視点から見れば、木枠に張られたキャンバス生地は様々なものを召喚する自然な感じのスクリーンであり、デジタルとアナログ、ふたつの文化的枠組みを折衷させることのできる物体だ。ウェイドのキャンバスはこの現実空間に実在しているが、君ならデジタルの中にアナログの死後の世界があるのだ、みたいな、時代錯誤で捻くれた事を言うかも知れないね。

JB: ペインティングにおけるこれらの転換は、文化の大きな転換とも連動しています。20年程前にはペインティングがどこにでもあったので、観たくなくても目に入ってくるような状況でした。また、必然性に従ってジャンルに名前をつけるという行為はとても難しいことだと思います。頑張ってキャリアを重ねていく中で私が理解したのは、批評の実践と議論とは、問題に名前を付け:それを分析し:代わりの道を提案することだ、と言うことです。問題に対して想像力を働かせることや、それを乗り越えようとすることよりも、何が間違っているのかを正確に描写することの方がとても難しいのではないでしょうか。批評の実践という重要な文脈上にあるはずの作品制作が持っていた教訓性は薄れ、突如として全く違ったものに感じるようになりました。
必ずしも悪い事ばかりではありませんが、それでもほんの少し前まで、アートは政治性を込めることで圧倒的な力を帯びる優れた表現手法だったのです。少なくともそれはとても分かり易い表現でした。
その分かり易さが政治への貢献において非常に重要だったのです。この20年間で、その分かり易さは失われたように思います。その力がまた戻ってくる事を祈る必要はないけれど、アートは様々な問題を抱えており、できることにも限界があることは確かでしょう。ですが、ごく最近まで非常に有効だった戦略ですら今日の文脈の上では役に立たない、ということに気付き、我々と現代の出来事との関係性が理解の範疇を超えている、と感じることがとても重要だと思います。

WG: わたしも制作では同じような不安を感じていますよ。

JB:ですが若い世代は、曖昧な両義的表現・カモフラージュ・流動性を、論争や提案の代わりに持ち込もうとしている様にも見えます。それは代換手法というよりもアートのシステムをゲーム化するやり方です。

WG: ええ、私達が分岐点の時代に生きていると認識することは重要だと思います。我々は20世紀末には既に大人だったので、インターネット以前の生活も鮮明に覚えています。政治やアイデンティティに関する闘争も、今の若い世代のやり方とは全く違っていました。

JB: 次の段階へと向かっている君の作品において、 この新しい時代背景に対するぼんやりとした認識が作品に込められていることが、最も好奇心をそそる部分かもしれませんね。キャンバスを空間として利用する伝統的なペインティングの方法論によって、分類不可能で奇妙な新しいタイプの視覚体験を生み出していますが、それは絵画の枠組みの中にあるようには振る舞わず、ただ写真ではなくなっているのです。
わたしは君の作品が少し怖いんですよ、どうすれば批評的に正確な分類ができるのかわかりませんから。また、その作品は声高に主張することなく、批評の歴史の重要性を教えてくれている感じがします。

WG: ここに重ねられている絵画は、いろんなところに移動されたり新しいものが制作されて追加されたりしていますが、ただそこに置いてあるだけでスタジオの雰囲気を変えてくれます。確実に私もその影響を受けていますね。わたしはNYタイムズ・ペインティングやチェアー・ペインティングの旧作との視覚効果の違いや、スタジオの床や窓から見えるマンハッタンの空の関係性などに自覚的です。
真っ黒な絵画に毎日囲まれて過ごすのと今では全く違う気分なんですよ。描く絵画を変え、更にしょっちゅう移動させることは、スタジオの背景美術を変えるような効果を持っているんです。絵画があれば医者いらずですね。

AH: そう聞くと、君の新しい絵画は現代について熟考を実践しているように思えるね。このデジタル化された環境によって、何かに没頭することは難しくなっている。その全てのモチーフ ― 印刷待ちしていると見ることになるプリンタの右前の床、窓から見える風景、熟考しているときに膝を置く椅子の肘掛けの拡大写真、目についたオンラインニュースなど──
これらのモチーフは全て制作過程の中で撮られたもので、内省的な要素と外部の世界へ拡散していこうとする要素が混ぜ合わされている。その瞬間を捉えた象徴的な作品が、チェアー・ペインティングのシリーズだ。このシリーズでは、過去作はただそこにあるだけでなく道具として利用する事が可能ということを見せることで、過去を振り返る事で 今・ここについて考える、温故知新の思考法を視覚化している。
ねじれたブロイヤーのイスが描く、クエスチョンマークのようなエキセントリックな線は、熟考する最中で起きる矛盾を象徴的に記号化しているようだ。実際、君の絵画には矛盾が見られるからね。我々はいまだにマイケル・フリードの言説に捉われていて、彼の作品への没入に関する力強いコンセプトを、絵画の適切な受容のあり方であると考えている節がある。経験としての熟考、美しさの純粋な自己現前性といった言葉を、フリードがエッセイ “Art and Objecthood” (アートと客体性)の最後に書いたことは有名だ。彼は審美的な領域を、テクノロジーや経済による汚染から守ろうとしたんだ。

WG:私が作品で注目しているポイントも、そのシリーズごとに変動します。iPhoneで撮ったスタジオの床の写真から絵画を作ることを通してアート作品の演劇性について考えるということと、警官の暴力事件に関する記事を読み、それをプリントする作品は全く違うものです。ご存知の通り、鑑賞者も作り手も視点や考え方が常に一定で固定されていることなど決してありえないのです。

JB:それはまるで、わたしが ウォーカー・エバンスの写真作品を盗用したシェリー・レヴィーンの作品を初めて観た時のようですね。私はその作品の前で長い時間立ち尽くしました。“私はここで何を観ているんだろう?私が本当に観ているものは何なのだろう?” などと感じましたが、私はそこに立ち、それを観る必要があると感じたんです。それが私にとって初めての視覚的体験でした。
他人の作品を自分のものとして主張する、というコンセプトよりも私を魅了したのは、“私が今観ているこの作品は実物とほとんど変わらない盗用された複製であると知っているが、決して同じものとは言えない”という感覚でした。そこには、目には見えないけれど何か観るべきものがあったのです。またその作品の魅力は、そこに存在しているのに無を観ている様に感じるところです。複製すると同時に何かが相殺されているのです。

WG:オブジェクトはまるで磁気の様にエネルギーを吸収・放出します。力を生み出すだけでなく貯蔵もするのです。作品も同様に、様々な文脈や時代の経過によって魅力や意味を帯びていくと言えますね。

JB:ウェイドの意思決定が、まるで意思決定には見えないことも関係しているのかもしれません。君の作品が放出しているエネルギーは、絵画の歴史、期待、君個人の価値判断がひとつになって作品に注ぎ込まれたものです。
つまり、この絵画には君の主観も入っているのです。“私は今何を観ているのだろう?”と感じるということは、君が何を意思決定し、またはしていないのかを観ているということであり、無意識と意識を観ているということでもあります。また、ウェイドの作品には使用しているテクノロジーの特徴も現れていますが、そのひとつであるグリッヂも半意識的な操作によって生み出されたものです。また、これらの要素にはある種の対抗心を感じます。様々な要素をひとまとめにして、君はおろか誰も処理できないような情報でも扱ってしまう特徴的な方法論などはまさにそれでしょう。

AH:そうだね。それにその絵画は、アート作品は磁石である、というウェイドの言葉がまさに表現されている。彼の作品は何か敵対する思想を排除しようというタイプではない。ジョン・ケージが言った有名な言葉のように、その絵画の表面は未来を夢想し、新しい観念を発見する旅へと飛び立つための空港なんだ。それこそが、絵画というジャンルを構築し歴史を紡いで行くために必要なことなんだ。歴史は作品を作っている時点で既に生まれているわけではない。歴史を紡ぐということは、時代を超えて残っていく作品を産み出すために、様々な領域の思想、方法論、出来事を組み合わせていく営みなんだ。

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