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〈画廊に行くようになって気がついたこと〉まとめ、41ー45

第41回


 画廊に立ち寄るのは、美術館の特別展ではなく、小さな出会いを求めてでもあります。

 過去の天才達が作った美術の歴史的遺産に触れることは、大きな過去との接触で、それは、無知と知の問題でもあるでしょう。

 今、製作を続けるアーティストとの接触は、自分とあまり身の丈の違わぬ場所で生きる彼らとの交わりでもあるのでしょう。

 出会いは、鏡のように自分の姿を見せてくれます。大きな過去との出会いは、文化、歴史、社会といったわたしの環境を考えさせるのですが、社会のどこかにいる誰かとの交わりは、いま、ここのわたしの感性や面持ちを感じさせてくれます。

 なかなか、時間が取れないことも、大きいですが。

第42回

 
 僕らは日々、変化しています。変わらない部分の方が圧倒的に多いのですが、それでも、小さく変わり続けています。

 出会ったものを取り入れて、変わることがなければ、学びや成長というものは成立しないことになります。

 以前見た作品や知己を得た作家と出会い直す、ことは、作品の評価を再発見することに止まりません。

 評価を変えた自分自身との出会い直しともいえると思います。

第43回


42では、自分の再発見の話をしました。

 自分が変化するとともに、自分に影響を与えている文化、そして、その文化に影響を与えている社会の構造も日々、変化しています。

 自分の変化は、環境の変化であったりします。

 作品との出会い直しは、変化を気付くキッカケにもなります。

 還暦に近づいたかつてのアイドルの映像に、懐かしさと共に、ファッションの古臭さ、ダサさを感じ、記憶がいかに改造されているかにきずくこともあります。

 再発見は、出ない直しでありますが、それは、環境、文化や世界を、自分の中で再構成することかもしれません。

第44回


 新しいメディアの登場は、これまでのメディアに向けての問い直しにつながります。写真の登場は、それまでの絵画技法の限界と可能性の問い直しにつながりました。

 絵画と写真の違いを考えてみたいと思います。

 模写、そこにあるものを伝えるという観点から見れば、写真の登場は、絵画の業界に大きな衝撃を与えました。

 手で描く絵画というのは、多くのものを取り込んで、配置して構成していきます。コラージュ、コラグラフ的なものです。
 写真というのは、あるものに焦点を合わせてその周辺から、切り取る作業です。

 絵画が、ある意味、足し算としたら、写真は、引き算です。絵画は舞台に例えるなら、大道具を並べていくことに近いかもしれません。

 写真は、写したいものを狙って切り取るのですが、面白いのは、意図しないもの、気づかないものも取り込んでしまうのです。

 無意識がテーマになっていく時代とも連なるのかもしれません。


第45回


最近の映画の看板は、プリントしたり、モニターに映像を映し出したりするようですが、かつては、職人さんの手描きでした。

 一人一人の職人が個別に描くのですから、出来不出来も出てきますし、全部を並べることができれば、そのムラもでてくるでしょう。
 だから、一枚一枚の看板には、さまざまな身体性というのがあったはずです。

 印刷、マスプリントは、同じものがでてくることが、目標でもあります。でも、それは、違いを、個性を喪失する流れが広がることでもあります。

 個別性、身体性と、複製、反復性、美術・芸術を考える際、大切なファクターにも思えます。

 よく行った散髪屋のおじさんは、かつて、看板の仕事をしていて、映画の衰退と技術の進歩から、手描きの看板がなくっていく動向から、看板描きから離れて、散髪屋に変わったそうです。
 お店には、美空ひばりや大原麗子、北島三郎など往時のスターの肖像を鉛筆で描いた絵を飾っていました。

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