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〈画廊に行くようになって気がついたこと〉まとめ、36ー40

第36回

 絵の大きさ、ジャンルによって、身体の使い方、感覚の違いを説明してきました。

 作品を前にして、評価や感動を、言葉で説明しようとしますし、アーティストもそれを評価として受け取ります。

 でも、絵は、美術は、言葉や概念で作られるものとは言いきれません。アーティストの身体を通して現れるものです。

 繰り返し作業をすることで、身体の中に、〈描く〉ことが、セットされ、無意識のうちに筆が、描くこともあるのです。

 なんで、こんな線にしたのと聞いても、なんとなく、としか言えないこともあります。でも、そのなんとなくの中に、そのひとでないと出てこない意味があると思います。


第37回


 アーティストは、表現のジャンルをどこかで選択します。エクリチュール、具材、支持体、手法、さまざまな技術と物質の中から、彼らは、何かを選択しては、それと、長い期間付き合いつづけるのです。

 先人の作品に感動して、その分野にすすんでも、手法にどうしても馴染めず、別の手法に進むひともいます。

 回り道のように見えても、下手すると一生続ける作業ですから、自分とあらためて出会えたともいえるでしょう。

表現というのは、結局、どこか自画像性を帯びざるを得ないのでしょう。




第38回


 絵を描くというのは、考えることも含めて、肉体、身体で行うことです。

 芸大に非常勤で教えに行っている彫刻家が、技術を一度は体に通してあげる、という旨のことを話していました。

 とにかく描け、たくさん作れというのは、多くの失敗作の中から一つの成功作を生み出せという意味でもあるのでしょうが、技術を体に染み込ませる、そのような身体性を得るということでもあるのでしょう。

 少しづつ、体が自然に動くようになる、アスリートのように考えずとも動く身体、そういうものを作るのでしょう。

 長いこと歌手をしている人みて思うことは、その人は身体そのものを一つの楽器として練り上げていくんだなと感じることがあります。

 でも、このことは、絵描き、彫刻家に限らず、全ての人の営みにおいて、通じることです。外からの、理不尽な介入によって、行為を行う身体を乱されることは、健全なことではないとも言えます。

 精神と関わる肉体、身体を傷つけないというのが、基本的人権として尊重されているのも、至極真っ当なことなんでしょう。


第39回


 日本の教育は、何をしたいかより、何ができるかで、若者の進路を割り振る形です。芸大にはいるのには、まず、デッサンの技術の習得が求められます。
 でも、生涯をかけて関わるものへの選択は、才能や技術でもないはずです。

 聞いた話によると、ヨーロッパの方の美術学校では、デッサンの技術などには、入学にはあまり重きを置かれず、何を描いてるか、何をしたいのか、そういうことが重要視されるようです。

 能力、素材として選ばれるのではなく、動機が重んじられるのです。

 アーティストに対して、好きでやってるんだから、という言い方がありますが、わが国では、その〈好きで〉という選択を大切にはしてない。

 学びを大切にするのでなく、業界への就職試験に、意識が近いのかもしれません。


第40回


 アートは、多くのひとに評価されることを目標にしています。その先には、販売、そして市場があります。
 経済活動や職業として考えれば、社会で、安定した地位にあるためにも、売れなければ仕方がなくなります。
 売れるためには、流行や世相を気にしないとならなくなります。
 でも、表現というのは、交わりから生まれる新しい自分の自己実現としての表現でもあります。
 ギャラリーフェイストウフェイスで個展を開催した、秋場さんの表現は、商品としての作品作りの対極にあると思います。

 自分が出会ったものを、思い返しながら、出会いの世界を広げるように尾鰭はひれをつけ足していく。繰り返されるスピンオフ。

 作らざるを得ない、語らざるを得ない、唄わざる得ない、うちから迸る何かがあるからこそ、ひとは、語り、歌い、作りつづけたのでしょう。

 創作のプリミティブなあり方と社会の間に、美術は、たゆたうのだとあらためて気づきます。


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