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美術館感想文/ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会 | 森美術館

展覧会の感想は別のSNSにあげることがほとんどでnoteには書いてこなかったけれど、どうしようもなく考えることが多すぎて文章にまとめきれないのでnoteに書きつつ精査して削ぎ落として人様に見せられるレベルにしたものを別のSNSに掲載すべきではないかと思いつつある。

こんなにも考えているのは、森美術館の「ワールドクラスルーム」の展示を見たから。
美術館に行くにあたって、せっかくノートと鉛筆を持って出掛けたのに、ホテルにおき忘れてしまった。仕方なく展覧会でもらえる作品リストに書き込みながら進んでいたが、これ、意外といい。いつも、考えたことばかりをメモにとって、そのタイトルや作者をメモしないから、記憶が消えたら記録としての機能を十分に果たせなくなるので。次からこうしよう。

李禹煥の作品が展示されているので行くことに決めた今回の展示だったが、昔出会っていて再会した好きな作品や、はじめましての好きな作品、好きとかそういう次元じゃなくて足が動かなくなる作品、など、いい出会いのたくさんあった展示だった。

【国語】から始まった企画展のはじめの文章を読みながら、「コンセプチュアルアート」とは何か、現代アートとは何か、まるで教科書の1ページ目を捲るように歩みすすめる。
並べることにより生まれてくる関連性、そのことによりそれ自体を見つめ直す、という、何もないところに何かを生み出すこの何とも言えなさがたまらなく好きだなと思った。
(ジョセフ・コスース「1つと3つのシャベル」1965)

次の部屋の映像作品はちょうど英語字幕のタイミングだったが、作品の本質を理解するためには日本語字幕でも英語字幕でもかわらないように感じたので(内容がすぐに直訳できるレベルの英語だったこともある)そのまましばらく見る。大学時代に旧校舎で受けた言語学の講義を思い出しながら、思考言語が日本語であり、日本語でしかないことの皮肉や言語による統制について考えていた。
(スーザン・ヒラー「ロスト・アンド・ファウンド」2016)

フロイトの眼鏡で見るユングのテキスト、、、コンセプトがたまらなく好きだった。思わずこれは写真に残したいとカメラを向けた。私なら、誰の眼鏡で何を見たいだろうか。想像するだけで、好奇心よりも恐怖が上回ってくる。きっと私は、私が見たいというだろう。そしてそれは絶対に良くないことだ。もっと彼女の作品を知りたくなった。ル・コルビュジエが出てきて少しだけ親近感が湧いた。私は彼のことは何も知らないのに。
(米田知子「フロイトの眼鏡─ユングのテキストを見るII」(「見えるものと見えないもののあいだ」シリーズより)1998)

僕とYと音楽と沖縄と。
同性愛と異性愛と国籍と内と外と。
セクシュアリティに関して議論をするのは大嫌いでいつも逃げてしまうのに、題材とした作品の前では動けなくなるのは何故だろう。議論が嫌いなのは恐怖からで誰からも理解されなくていいから否定されたくない防衛の気持ちからだろうというのはなんとなく予想をしていて。自分の言葉で自分や相手を傷つけたくないし傷つけられたくないから話すのをやめてしまったのだと思う。
作品の前で動けなくなった。映像作品はどちらかというと得意な方ではなくて最初から最後まで全部見ることはほとんどないのだけど、この作品は動けなかった。気付いたら映像が終わって、また始まっていた。
(ミヤギフトシ「オーシャン・ビュー・リゾート」2013)

【社会】
社会彫刻という言葉を知る。
どんな人間も社会という彫刻をつくる芸術家だ。
(ヨーゼフ・ボイス)

戦争が描かれるように、福島第1原発の事故が描かれているのを見て、現代社会が歴史へとなっていくのを感じる。全然過去にならないのに、きっと数年生まれ年が違うだけで捉え方は全く異なるのだろう。年だけを重ねてしまって時間がついてきていない気がしてくる。
(風間サチコ「獄門核分裂235」2012)

サウンド・インスタレーションという表現方法、おもしろいなぁ。
(シルバ・グプタ)

はーーーーー。
この作品は、全く、全く咀嚼できない。
21分間映像の前から動けなくて、時間が許すならあと3周くらいみただろう。でも決して好きなわけじゃないのが難しいところで、すごく苦しくて逃げたいのに動けない感じ。前も書いた気がするけど、私という人間を正常に保ちブランディングするなかで、惹かれたくない、惹かれるべきではないと思いながらも、結局本質的なところで強く惹かれてしまって認めざるを得なくなる感じ。
「教育する」とは何かを考えていた。「学校」という機能と、異常性と、効率化。管理と統制、抵抗と慣れと服従と。私はかなり学校化された人間だとは思うが、それと引き換えに安心を手に入れたような感覚がある。“狂信的な態度”で“訓練”された人間の枠にピタッと収められた側の人間。
人それぞれ考え方は様々で多様な価値観があって、決して正しいなんてものはないのかもしれないけれど、そうなると自分が前を向いてるのか後ろを向いてるのかもわからなくなるので、その基準を一般という形で教えてくれているものだと思う。その拠り所がないと私はきっと不安で孤独で死んでしまう。そういう意味でとても感謝しているのだけれども、不安と孤独で殺されるような人間を作ってしまったのもこのことによるものなのかもしれない。
(藤井光「帝国の教育制度」2016)

この辺でもうすでに1時間が経ってしまい、焦る。

52階の窓から見える夜景と、ドラァグクイーンの“彼ら”の写真たち。LGBTQの捉え方は今後どのように変わっていくのだろうか。その枠組みやラベリングが違えど在り続けることは今も昔も変わらず、認識するということは同時に認識しないものも生み出してしまうのか
(菊池智子)

【哲学】
「観念としての芸術」。視覚的な美しさではない、鑑賞者の思考に働きかける
(マルセル・デュシャン)

「仏教的」「死生観」という言葉をキャプションからメモしている。キャプションにより我々は作品を理解した気になって、キャプションによってしか作品を見れなくなってしまう恐怖におびえる。一方でキャプションがないとそんなことなんて考えもしなかったよ、なーんて場面も多々ある。作者から見たらとんだ見当違いだってこともあるだろう。たくさんのことを知った気になりながら、わかるということは同時にわからなくなることだ、と思う。でもこれは、西之園萌絵のいう「煮物のような人」に近い意味に違いない。
(宮島達男)

圧倒された。圧倒、という言葉が適切かはわからない。言葉を失った。かなり禁忌に近い行為のようにも思えた。でもその禁忌を決めているのもまた自分自身なのだ。長く見ていると囚われそうな気がして目を背けた。それでもなお強烈に瞼の裏に残っている。
(アラヤー・ラートチャムルンスック「授業」2005)

出会えた時の安心感の割に、メモには何も残していなくて笑う。好きだ。言葉にできないほどに。言葉にできない記憶を言葉にすることでしか記録できないことが惜しい。関係項に映り込む対話が綺麗で美しく凛としていた。
(李禹煥「対話」2017、「関係項」1968/2019)

【算数】
壁面に掲示された数式が美しく、立体物そのものよりも強い芸術性を感じてしまう。建築は数学的で芸術的だという話をずっと考えている、というようなことを前回のnoteでも書いた。その中では数学(理系)と芸術(文系)の矛盾する2つのが建築という存在によってイコールで結ばれる違和感のようなものを感じていたが、彼の作品を見ていると、数学は芸術だと思えてくる。そろそろ江之浦測候所に行かなければならない。
(杉本博司)

【理科】
光を放ち、光を失っていく。
まるで呼吸しているかのような作品だった。圧倒された。空間の中にいつまでもいれたし、いなければならないような気がした。すごい。もっと彼女の作品を知らなければならない。
(田島美加「アール・ダムーブルモン(アラベケ)」2021「アール・ダムーブルモン(カレナ・マイヒバ)」2021)

【総合】
最後の最後に、すごく好きな空間だった。
映し出される雲の映像と、布から壁へと移りゆく光と、風で揺れる布と、奥のガラスから見える夜景と。昨年の夏にみたレオニート・チシコフの作品(「雪の天使(月への道)」)をもう一度見たくなった。
(ヤコブ・キルケゴール「永遠の雲」2023)

書き殴り推敲もしていないので許してほしい。
音声ガイドを聞きながらみたら、
テレビ番組の解説を見てからいったら、
また見え方が違うんだろうなぁ。
あぁ。仕事帰りに寄れる距離に住んでいたかった。

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