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お笑い芸人は、絶えず「枠」を更新せよ

もう、うんざりだ。
何回、お笑い芸人の萎びた顔の謝罪を見なければならないのか。

岡村隆史が、『岡村隆史のANN』での問題発言で批判を浴びている。

それに対して、ニッポン放送、吉本興業を通した岡村隆史本人による謝罪文が公表された。

当本人が謝罪したのだから、この件はこれで終わり…にしてはいけない。

断じて「これに乗じて岡村隆史を徹底的に叩かなければならない」といった行き過ぎた正義感の棍棒を振り回せと言っているのではない。

全ての芸人は、どんなに少数に対しても、それが公のオープンな場で行われたものであれば、言動がいずれ大多数の目に晒される可能性があるということに自覚的にならなけれればならない。もはやクローズドな場所など存在しないのである。
それ程までに、インターネットは私達の世界を狭いものに変えてしまった。

限られたリスナーのみが聴く25時の深夜ラジオであっても、鼻息の荒いお笑いドスケベが集まる小さなライブで披露された漫才であっても、ホテルのワンフロアで内密に開かれた忘年会であっても、一人でもSNSで発言する人が現れたならば、ネットニュースが取り上げ、その言動が白日の下に晒されてしまうのだ。
一度大きく取り上げられてしまったら最後、コンテクストを無視され、発言の意図を歪められ、やりたい放題に蹂躙されてしまう。

400回しか再生されていないはずのペンギン村の実態でさえ、SNSではその内容・感想が溢れている。
『さらば青春の光×藤井健太郎 ~テレビでもネットでもできないし、個人事務所じゃなきゃできない映像LIVE~』の内容だって、ネットの海にいずれ放り投げられることだろう。(むしろこれに関しては、何故未だネット上にネタバレを書く人が現れないのか)

繰り返そう。もはや地球上にクローズドな場所など存在しない。
だから、「危険な表現がセーフとされる場所」などというのも存在しない。
これがコンプライアンスを過剰に求める我々が作り出した社会なのである。

今を生きる芸人は、これを肝に銘じながら、お笑いの新たな表現を探さなければならない。それこそが、土足で上がり込んでくる人々からお笑い文化を守るために必要なのである。

かつて岡村隆史は、「自分は、実際にはバラエティの枠を破っていないが、破っている様に見せている」といった発言をしていた。規制の厳しい時代に立ち向かう姿勢を見せてくれたのは、誰よりも彼であった。
ならば、その「枠」を更新し続けることを辞めないで欲しい。新しい価値観を吸収せずに立ち止まっていることは、退化なのである。

この文章は、お笑い芸人の誰にも届かずに、きっとネットの海を彷徨い続けるだろう。

ただ、批判の声が届くなら、同じように、変わってほしいという一縷の望みも届いて良いのではないか。そんな希望を持って、この文章を書いている

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