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「東大生」の使い方がヘタクソ

自分が「東大生」であったのを、なるべく他人に伝えることを控えている。このnoteでも、自分の就活体験など前提情報として必要で無い記事の場合は、「東大生」を文章の中で強調しないようにしている。

それは、「東大生」という先入観をもって 自分を見られることが、どうしても嫌だったからだ。

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君東大生なの? 頭良いんだね~

自分が「東大生」であること/あったことを話すと、大抵こう返される。自分は「そんなことないですよ~」と言ってその場を切り抜けようとする。そこで話題が別トピックに移ってくれれば良いのだが、中には「そんなことないでしょ」とか「君が頭良くなかったら、俺らどうなっちゃうのよ」みたいに返されてしまう。私は「いやいや~」としか言うことが出来ない。彼らは、私にどのような反応を求めているのだろうか。謙遜が美徳とされるこの国では、「そうなんです、頭は良いです!」と言うことは許されないのに。

更にネガティブな感情を覚えるのは、「東大生」性を突然付与される時だ。他愛無い会話をしていたのに、突然「東大生にこんな話してしまってごめんね~」などと言われることもあった。私も楽しんでいたのに、私と彼を繋ぐ橋は突如分断され、「東大生」と「彼ら普通の人たち」という対立の構図を組み立てられてしまう。仲間だと思っていたら輪から外されていたことが分かり、独り悲しくなるのだ。

また、そのように過度に「東大生」性が着目される時、大抵 私という個人を見てくれてはいない。私は個性を失い、「東大生だから/なのに~」という言葉をもたらす記号的な「東大生」という存在に成り下がる。勿論、私の内面を見て「頭が良い」と言ってくれることは嬉しい。例えば、このnoteに書いた記事を褒められることはポジティブに受け取る。だからこそ、このnoteでは表面的な文字記号としての「東大生」を出来る限り排除するように努めている。

「東大生」に注目する人が多いからこそ、「東大生」性を過度に押し出すという計算された使い方もあっただろう。YouTuberの「QuizKnock」などが分かりやすい例だ。質の高いコンテンツの注目度を更に上げるために、メンバーの「東大生」性がドン・キホーテの商品のようにこれでもかと詰め込まれて並べられている。「東大生」性は適切に使えば自分にとって大きく有利になることもあったはずだ。

ただ、自分はそうしたいとは思えなかった。みんなと同じ「普通」が良かった。うんざりだった。大学生活の中で、私は何度「東大も他の大学と一緒ですよ?」「勉強なんか好きじゃないですよ?」と言わなければならなかっただろうか。「東大生」性を勝手に他人に消費されることは、大学を卒業した今でも抵抗感がある。ついこの間も「東大卒業したの?頭良いな~」と言われたばかりだ。これは一生付き合っていかなければならない、人生の大きなテーマの一つなのだと思う。

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ただ、私は「トラジックな主人公」になるつもりはない。私が「東大生」性を消費されることを嫌がるように、人の数だけ勝手に消費してほしくない性質や経歴がある。イケメンだって顔についてばかり言われることに辟易しているだろうし、アーティスティックな面を持つ人は「変わっている」と思われたくない時もあるだろう。何かしらの生き辛さは誰しもが抱えているし、それは大抵他人には理解されない。私だって、きっと無意識のうちに「ステレオタイプの押し付け」を他人にやっている。

だから、他人に対する想像力を僕も君も持たなければならない。表面的なリモートのコミュニケーションが普及してしまったからこそ、相手がどんな人かを丁寧に理解していく態度を示していかなければならない。君が誰かと話してみて感じとった印象は、どんなステレオタイプよりもその人を的確に表すことが出来るのだから。

強く思う言葉は、いつも自分への戒めでもある。

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追記しました。


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