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すべてのゾンビ映画は縄文映画だ!

縄文人AとBの会話

(※この本文にはリチャード・マシスン『地球最後の男』と藤子不二雄『流血鬼』のネタバレにふれています)

縄文人A:すべてのゾンビ映画って縄文映画だよな。

縄文人B:何言ってんだよ!

A:まあすべてって言ったけど、まずはいくつかあげてみよう。最近よかったゾンビ映画だと『新感染』が別格によかったな。日本映画だと『アイアムアヒーロー』も良かった。それから古典だとジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』。ロメロ監督はゾンビ映画の生みの親。最後にあげておきたいのは映画ではなくてドラマだけど『ウォーキング・デッド』。

B:で、どこが縄文なんだ?

A:そう焦るなよ。まずゾンビ映画ってどんな映画だと思う?

B:そりゃあ、死者がよみがえって襲ってくる映画だよね。それから噛まれたら「ゾンビウイルス」的な何かに感染してみんなゾンビになっちゃう。で、もう死んでるからなかなか倒せなくて……、こんな感じ?

A:まあ大体あってるよ。じゃあ、ゾンビ映画と他のホラー映画の違いってなんだと思う?

B:えっ、違うのか? そんなに変わらないような……。

A:いいか、ホラー映画の何が怖いのかっていうと、基本的には痛みや血や死の恐怖なんだ。

B:そりゃそうだ。でもそれはゾンビ映画だって同じじゃない?

A:もちろんゾンビ映画もそういうところはあるんだけど、でもゾンビ映画の本当の怖さはそこじゃないんだ。自分がゾンビ化することへの恐怖こそがゾンビ映画の恐怖のキモなんだ。

B:ゾンビ化?

A:そう、人間ならざるものの仲間にされてしまうことへの恐怖。ゾンビに噛まれると自分もゾンビになるだろ。

B:死の恐怖とどこが違うんだ? ゾンビだって死んでるだろ。

A:わかったわかった、順を追って説明するよ。ゾンビ映画は先にあげた『ゾンビ』のロメロ監督が発明したジャンルなんだけど、実は下敷きとなる小説があるんだ。それがリチャード・マシスン作『地球最後の男』。この小説は何度も映画化されているんだけど、一番最近だとウィル・スミス主演の『アイ・アム・レジェンド』の原作がこれ。

B:見た見た。たしかウィル・スミスが無人のニューヨークで犬と一緒に暮らしているやつだよね。最近って言ってももう結構前だよな。そう言えばタイトルも『アイアムアヒーロー』に似てるな。

A:そこから名前をとってるから当然だよ。それはそうとて『地球最後の男』は吸血鬼のお話なんだ。昼間は主人公だけの世界なのに、夜になると吸血鬼たちが活動し始める。主人公は昼間に寝ている吸血鬼たちを殺しまくって、夜は隠れてじっとしている。このお話のキモは、主人公は吸血鬼たちが知性のない怪物の集団だと思っていたのが、実は吸血鬼同士の社会があって、寝ている昼間に自分たちを殺しまくっている恐ろしい〝怪物〟がいると主人公を恐れているという点だ。〝伝説の怪物〟がいるって。だから「アイ・アム・レジェンド」なんだ。

B:おー、怪物は俺だったのか!って世界が逆転する感じが怖いな。たしかに吸血鬼も噛まれたら仲間になっちゃうし、ゾンビものに近い。

A:そうなんだよ。まあゾンビは基本的には吸血鬼のような知性はない。そもそも死んでるし。ただし、ロメロ監督は知性ではなく知性の残滓のようなものを死者に付け加えている。

B:残滓?

A:そう、残滓。ゾンビ化した人は生きていた頃のかすかな記憶を残していて、自分がいつもやっていて、体に染み付いちゃっていることをただ単純に繰り返す。だから会社に向かったりするし、家に帰ろうとしたりもする。たとえば映画『ゾンビ』ではショッピングモールにぞろぞろ集まってくる。

B:みんな生前はショッピングモールが大好きだったってこと?

A:そう、『アイアムアヒーロー』だと御殿場あたりのアウトレットに死者はみんな集まってくる。

B:なるほどね。

A:実はロメロ監督はこのことに社会的な批評を込めているんだ。『ゾンビ』公開当時のアメリカは、各地でショッピングモールができ始めた時期で、小さな商店や既存のコミュニティが壊され、効率の良い新しい物質文明が出来上がりつつあったんだ。それを恐ろしいと感じたロメロ監督は、たいして欲しいものもないのに無目的にモールに集まる人たちを、「生きる屍」となぞらえた。そして、このことがゾンビ映画と普通のホラーとの一線を画す部分になっている。ひじょーに意地が悪いけどね。

B:本当に意地が悪いな。で、そろそろ縄文の話をしろよ!

A:そんなに噛み付くなよ。お前はゾンビかよ!

B:うるせえ!

A:はは、縄談、縄談。モールに無自覚に集まる人たちを物質文明に囚われた生きる屍だと批評していても、ロメロ監督は基本的には諦めの姿勢だ。その証拠にほとんどのゾンビ映画は解決しない。大体追い詰められてもうしょうがないって感じで終わる。

B:確かにゾンビ映画のハッピーエンドは見たことがないな。

A:だからゾンビ映画っていうのは、時代の大きな変化に飲み込まれることや、今まで慣れ親しんだ文化を捨てなければいけないことへの恐怖を描いた映画と言えるんだ。縄文時代から弥生時代への変革期、社会は大きく変わっていっただろ。今まで一緒に狩猟採集でやってきた仲間たちが、急に田んぼを作りはじめたりする様子を見てどう思う? みんなで並んで苗を植えて同じように稲を刈って……。当時その姿を見た縄文人は絶対にゾッとしたはずだ。絶対にああはなりたくねえなって。このように縄文晩期の稲作到来という新しい時代を迎える葛藤とゾンビ映画の骨子は完全に重なるんだ。だからゾンビ映画は縄文映画なんだ。

B:おい!稲作農家の人が聞いたらどう思うんだよ!

A:いや、こういうことは誰でも思うんだよ。今までずーとやってきたことをやめて新しいことが始まったときには。みんな歳を取れば「昔はよかった」って言いだすだろ。

B:たしかに。この間小学生がそのセリフ言ってるのを聞いたよ。

A:小学生でそれはやばいけど、幼稚園児が小学校に上がるのを怖がるのも、本能的に変化を嫌っているせいだからな。

B:マジかよ。

A:もう一つ。ゾンビ映画ファンの間では、走るゾンビの是非について今でも激しい論争が繰り広げられているんだけど、それは、動きののろいゾンビをなめてたらいつの間にか囲まれていたという恐ろしさもゾンビ映画の醍醐味だからだ。『ウォーキング・デッド』はその辺の描き方が上手くて怖い。

B:オレも走るのはどうかと思うよ。

A:このことも、気づいたら周りは田んぼばっかりになっていた縄文人の絶望に重なる。ちなみに最近のゾンビはけっこう走る。『新感染』も『アイアムアヒーロー』のゾンビも全員でないにせよガンガン走る。

B:流行りみたいなもんかな。

A:『地球最後の男』のように、いつの間にか自分たちが少数派になってしまったという恐怖と、ゾンビに取り込まれてしまうという恐怖。そして諦めるしかないというメッセージも含めて、ゾンビ映画は縄文映画なんだ。

B:説得力があるような、無いような……。

A:はは、今回あげたゾンビ映画はどれもすごく面白い「ゾンビもの」だからぜひ見て欲しい。『ゾンビ』はもちろん、『ウォーキング・デッド』はゾンビの造形が素晴らしい上に、実は人間がゾンビよりも醜悪だという(実はこれもゾンビ映画の一つのテーマだ)こともよく描いている。『新感染』はゾンビ映画の枠を超えて誰が見ても最高の映画だゾンビがとんでもなく活き活きしてるしな。他にも、コメディだと『ショーン・オブ・ザ・デッド』、ラブストーリーなら『コリン』がおすすめだ。

B:ラ、ラブストーリー⁈

A:ラブストーリーはちょっと特殊だけど、最後に一つあげたい作品がある。藤子不二雄が『流血鬼』という『地球最後の男』を下敷きにした短編漫画を描いていて、ラストシーンでこの古典をさらに一歩先に進めている。ストーリーは舞台が日本というだけで、ほとんど『地球最後の男』と同じだ。だんだん吸血鬼たちに追い詰められていく主人公。結局は吸血鬼に噛まれ、仲間に取り込まれてしまうんだけど……。

B:だけど……?

A:ラストで吸血鬼になった主人公は気付くんだ。なんであんなに仲間になるのを嫌がってしまったんだろう。夜がこんなに素晴らしいなんて!って。このように、角度を変えるとゾンビ映画は全く違う話になる。これもまさに、縄文時代、稲作に抵抗する縄文人もいれば、悔しいけどお米の美味しさに気がつき、米ってなんて素晴らしいのか!って受け入れちゃう縄文人もいたってことに繋がるんだ。

まあ、お前なんて不味そうだから誰も噛まないだろうから、そんな心配もないか

B:うるせえ! なんで最後に悪口言うんだよ。 黙って聞いてりゃいい加減にしろ!

(縄文ZINE4号から抜粋)



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