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インクルーシブ教育に関する情報発信のあり方について

マイノリティの方は他人の教材ではありません。

何かを発信しようとした際に、具体例を出すことは効果的です。
しかしインクルーシブ教育に関しての情報として具体例を出そうとした時、マイノリティの立場の方を選ぶということがあります。

これは「当事者」が語り、「非当事者」が聞くという構造になっています。
マイノリティに属する方は他人の教材として生まれた訳ではありません。

そして当事者と非当事者という立場の違いをハッキリとさせると分断を深めることにもつながりかねません。
当事者の中には、「自分はマイノリティの人間として紹介されずに、普通に社会で生きていたい」と話す方もいらっしゃいます。

この壁を見直すことなくインクルーシブ教育は推進できないでしょう。
むしろ、インクルーシブ教育を推進しようとして壁を厚くしていたという結果を招く可能性もあります。


マイノリティの方を、無意識に教材としないためには?

「マイノリティだから伝えられるものを持っていると考えている人は発信をすれば良いし、そうじゃない人は何かを聞かれても答えたくなければ断る権利がある。」

これはシンプルなようですが、断れば良いという問題でしょうか。
一度、臓器提供に関する賛否について考えてみたいと思います。

臓器提供に賛成だという方はドナーカードなどで自分の提供するかどうかという意志を表示すれば良いと思います。
また、臓器提供に反対だという方は臓器を提供しないという意志表示をすれば良いはずです。

そうすれば臓器提供をする意志のある方の中からドナーが見つかり、病気の方の治療が進みます。
反対派の人を無理やりドナーにするということはありません。

立場の違う人の考えを否定したり踏みにじったりしないというのは、マイノリティの方だけに意識するものでなく、家庭や学校、職場でも当たり前のことです。
しかしこれは初めに書いた、「何かを聞かれても答えたくなければ断る権利がある」ということと同じでしょうか。

私は違うと思います。
なぜなら断る以前に、自分のことを聞かれるだけで不快感を覚える方も中にはいるからです。

また、頼まれたら断れない性格の方もいます。
相手の人間の背景に興味を持つことは人間関係を築くにあたって必要なことですが、マイノリティであるというフィルターを通して、本人に代わって他人が紹介するという場合には慎重になるべきです。

マイノリティの方全員が何かを訴えたいと思っている訳ではありません。

個人的には何か自分のことについて発信している方には、その方のことについて聞きやすいと感じています。
もちろん相手への態度や言葉選びには気を付けますが、聞きたいことがあるということや、取材させて欲しいとお願いをすることそのもののハードルは低いのではないでしょうか。

発信の仕方について

私はインクルーシブ教育を推進したいと考えて、これに関する情報や考えを発信しています。

積極的に発信したいものがあるなら、活発に動いていけば良いと思います。
ただやはり発信する際には、マイノリティの方は他者のための教材ではないということをちょっとした責任として強調しても良いのではないかと思うのです。

ちょっとした責任というのは、発信する人の義務ではないものの、余力があれば「自分と同じ属性の人がみんな、伝えたいものがある」というバイアスをなくそうとするということも選択肢に入れて損はない、という程度のものです。

もしかしたらこれはエゴと呼ぶべきものなのかもしれません。
そしてもちろん、他者のための教材ではないということ強調することを押し付けるつもりはありません。

しかしこれを強調することで、誰かに気づきを与えることもできるのではないでしょうか。
自分の伝えたいことはもちろん大切ですが、視野を広げて違う立場の方への配慮も忘れずにいたいものです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
他の記事でもインクルーシブ教育に関する発信をしていますので、ぜひお読みください!

子どもたちの多様性を守る、いじめや排除のないクラスについて
https://note.com/22nichi_umare/n/n5c94c299978f




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