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掃除機をやめる_太陽に合わせて暮らす(3/8)

(Photo by Magnus S on Unsplash)

03:掃除機を使わないこと

 一人暮らしの限られた面積(と言っても、広い部屋が良かったので52平米、本来は2LDKの小さな世帯向けの間取りではある)で、モノが少ないので、掃除機は買わず、箒と塵取り、コロコロ粘着クリーナーで掃除をすることにした。子供のころから掃除機は家にあったものの、畳を雑巾拭きしていた記憶もある(いまから半世紀もの話だ、当時は僕の家は五右衛門風呂だった。お風呂の話はまた別の機会があれば)。

 おそらく、戦後アメリカから家事を楽にする(と謳われた)家電製品が続々と輸入され(そういった考え方を含めて)家の中の風景や家のメンテナンスの方法を変えてしまったのだと思う。

 掃除機というものが存在する以前は、風通しのいい日本家屋は窓を開放して、箒やはたき、雑巾がけで掃除をしていた。現代だって、別に掃除機が無くても、日常的に箒とはたきでメンテナンスしていれば、健康を害することはない(だろう)と思っている。昔からずっとそうしてやってきたわけだから。つまり、掃除機を使わないことが、部屋や空間が汚く不健康な状態である、というのは違うはずなのだ、考えてみれば当たり前のようだが、そういう「考えずして慣れてしまっている」脳は、つい、みんながやっている方法でないと何か害があるのではないかと「考えず」思い込んでしまいがちなのではないだろうか。

 同時に、掃除機があるがゆえに、埃は無くなることがない。つまり、生活に害になるゴミやほこりを部屋から追い出す程度では飽き足らず、掃除機はゴミを可視化してしまっている。吸えば吸うほどゴミが生まれる。そういうサイクルに無意識のうちにハマってしまっている、という側面があるのは覚えておいた方が良いと思う。

 結局はバンランスの問題なのだ。清潔であることは大事だが、普通の生活で無菌室のような空間になるわけがない。そうであれば、何をどこまでするのかは途方もないグラデーションである。最低ラインは、健康を害さないこと、なのだろうと思う。つまり、そうであるならば、多機能の高級な掃除機を購入し、フィルターなどの消耗品を定期的に購入し、使う度にかなりの電気を消費し、しかも掃除機の掃除をしなければならなくなる状態が果たして正解なのか、とふと思うのだ。
 
 時にバック・トゥ・ベーシック、あるいは過去どうだったかを考えてみることが意識を開放するということはあると思う。


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