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ドイツ語にも感情がある

こんにちは、にかです。
例によって夜中の一時前です。
だいたい毎日12時前に学校に行き、2,3個授業を受けるという生活の中、想像以上に課題が多いです。結構難しいドイツ語の問題集から毎日10ページくらい出されます。

と言うわけでもちろんそれらを解くのにも時間がかかるわけで、こんなものを書いている暇は全くありません。が、僕は文章を書くのがどうやら好きなようで、特に話題もないのに今日も書いています。noteを書くのは一日30分以内と決めることにしました。30分間でどれだけの量書けるか、成長が楽しみです。

もはや洗練された語彙による煌びやかな文体など求めていられないです。時間がある時は頑張りたいです、、
あとはイタリア紀行文も書きたい気持ちでいっぱいです。

今日のドイツ語の授業で、こんな文章を読みました。

大雑把に訳すと以下のような感じです。

『お金で買えない瞬間
わたしは、たとえばかつて風邪を引いていた。そして"大切な人が亡くなる瞬間"というのがある。それは、どうして自分はこの世でこんなにも手足をぶらぶらさせているんだ?という瞬間である。また幸せになるにはどうしたらいいのだろう。

ヘルマンヘッセはこう言った。「幸せとは愛であり、それ以外の何者でもない。愛せる者は幸せだ」。こんなのは、もはや言い古された常套句だとお思いだろう。しかし私にとってはそれ以上に大切な意味がある。見知らぬ人たちと幸せについて語り合い、人生の良い日も悪い日も過ごしてきた中で学んだことがあるとすれば、お金だけではもちろん幸せにはなれないということだ。」

本当の幸せとは、コインでは買えない。幸せとは、夏に友達とイーザル(注: ミュンヘン市内の川)に腰を下ろすことだ。幸せとは、ミュンヘンだ。シュタルンベルク湖だ。ハンブルクだ。そういう開かれた街が好きだ。幸せとは、ウィーンでもある。美味しい食べ物だ。そして建築的な狂気なのだ。』

はい、長いですね。幸せとは...についての文章です。これ、宝くじが当たって大金持ちになった人のエッセイの引用です。

さらに次の引用もご覧ください。(ここまでで15分経ちました...あと15分...)

人生の最期には、透明な山や湖のような気持ちになりたい。波はなく、静けさに包まれている。何もする必要がない。お金で買うことのできない感覚だ。これを手に入れるには、他の道をいかねばならない。』


さて、僕はこれらの文章を読んだときに、これまでに味わったことのないような感動に包まれました

最初の引用の「幸せとは、夏に川辺に腰を下ろすことであり、その他数々の自然そのものなのだ。」の部分。このなんでもない光景がまざまざと浮かび、それはおそらくドイツで日々疎ましいほどに自然に触れているからこそなのでしょう、そして古典古代から述べられてきたドイツの自然主義が眼前に現れてきたからです。

ドイツはいい意味でも悪い意味でも自然の多い国です。日本もそうなのでしょうが、関東にいるとなかなかそう感じることもありません。

「川」に幸せの泉を求める記述も綺麗で、三島由紀夫少年は、17歳の時の作品『花ざかりの森』の3章あたりで「私は私の憧れの在処を知っている。憧れはちょうど川のようなものだ。」と記述していたと記憶します。

さてこの美しい自然派的表現は、二つ目の引用で頂点に達します(あと5分!)。

『透明な山や湖のような気持ちになりたい』なんだか不可思議な日本語ですね。glasklarとは、glasとklarの複合語で、glasはそのまま「グラス」。klarは英語のclearに対応し、「明るい」とか「クリアな」とかいう概念に当たります。つまり、「ガラスのような透明感を持った明るさ」がglasklarなのだと解釈できますね。

Gebirgsseeという単語も不思議です。Gebirgeは「山」、Seeは「湖」を意味します。つまり、「山の湖」とでも訳せるでしょうか。しかし、辞書にこの単語は載っていません。普通はもっと簡単に山の湖という表現をするはずなのに、あえて存在しないであろう複合語を作っている。

そしてこれらが重なると...

glasklarer Gebirgssee...  (klarerのerは文法的な格変化です)

なんだかこの二単語だけで、この文の書き手の想像する光景が浮かんできませんか?

少なくとも僕には非常に美しい単語に見え、ため息すら出そうになってしまいました。文章全体の語感もとても美しく、詩的な文章になっています。

およそ5年前、高校2年生の夏休みが終わった頃に、ドイツ語学習をひっそりと暗い星一つない狭い部屋で始めた頃の僕は、こんなことが起きるななんて想像すらできませんでした。

僕にとってドイツ語は外国語であり、ただのアルファベットの羅列のように思えていました。そこに感情は生まれるはずはなく、ただHundを見れば「犬」だなと感じ、traurigという文字列を見れば機械的に、なんの心の感情もなく「悲しい」だなと感じていました。

しかし、今回この文を読んでみると、不思議とこの文章を書いた人の感情が心で感じられるようになったのです(前回の記事で、僕は唯物論者なので心は存在しないとか言ってたのはなんだったのか)。

たった2単語の世界ですが、この二つの単語に含有される世界はとてつもなく大きいように思われます。

4分オーバーの34分。約2500文字でした。もう少し書きたいことがありました。。仕方ないので今日はこの辺で終わりにします。

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