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小田急線刺傷事件を「フェミサイド」扱いする事は、日本の司法制度の否定である

フェミニストの胸糞悪いnoteへの異論

フェミニストが胸糞の悪いnoteを書いていたので、そのnoteの内容の異論となるnoto記事を書いてみる事にした。
その胸糞の悪い記事というのがこちら(↓)。
小田急線での刺傷事件とフェミサイドについて思うこととやるべきこと
記事の内容は、フェミニストの例に漏れず、先日(2021年8月6日)起きた小田急線刺傷事件を「フェミサイドである」と断定する方向性の記事だ。
だが、記事内で

容疑者個人の事情はあまり問題にしません。それは捜査が尽くされて司法がジャッジするまで確かなことが言えないし汎用性も薄い
(「小田急線での刺傷事件とフェミサイドについて思うこととやるべきこと」より)

と、容疑者個人の背景・事情については言及しないと宣言しながら、現在報道等で出ている情報等から

「フェミサイド」の要素がまったくないなどとどうして言えるのでしょうか。
(「小田急線での刺傷事件とフェミサイドについて思うこととやるべきこと」より)

断定(≒言及)するという矛盾を見せており、これだけで、このフェミニストの二枚舌がバレバレである。

しかし、それだけに留まらず、フェミニストというのは「現在の日本の司法制度に逆行する、日本の司法制度を遵守できない人達である」と言える点が有る、という事を今回は批判させて貰う事にする。

日本の司法制度の大前提

日本の刑事司法制度には「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜(むこ)を罰するなかれ」という理想であり、前提が存在している。

<参考>

今の日本の刑事司法制度がこの理想であり前提を実践できているかと言えば難しい。では、日本の刑事司法制度がこの理想であり前提を実践できていないのは何故なのか?
それは、民衆(≒庶民)の意識の問題だ。
弁護士や裁判官等、法律に携わる人間には、この理想であり前提を指す言葉を知っている人は少なからずいる。では、民衆(≒庶民)の中に、この言葉を知っていた人はどれぐらいいるだろうか?

おそらくだが、件の胸糞の悪いnote記事を書いたフェミニストも当然、「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜(むこ)を罰するなかれ」という言葉や、それが日本の刑事司法制度の目指す所であるという事は知らなかったのではないかと思う。(※1)

この「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜(むこ)を罰するなかれ」という言葉。
これは、法律家だけがそういう精神を持っただけで実践できる物ではない。この理想を現実にするためには民衆(≒庶民)も、仮に自分又は自分に近しい者(家族・友人等)が犯罪被害者となる事件だった場合でも、「その事件の真犯人を逃がす事になったとしても、誰かを冤罪で罰してはいけない」(≒罪を憎んで人を憎まず)という精神を持たなければならない。
つまり「法律が民衆(≒庶民)を信じ、民衆が法律を信じなければ刑事司法制度は成立しない」「国は民衆(≒庶民)を信じる、だから、民衆(≒庶民)も国を信じろ」という意味があるという話を聞いた。
なるほど、日本の刑事司法制度は性善説(人間の本性は基本的に善であるとする倫理学・道徳学)に基づき、互いに相手を信用し合える世の中を作りたいという目標で作られているのだなと感じた。

件の胸糞の悪いnote記事を書いたフェミニストに「自分や自分に近しい者が犯罪(痴漢だろうが、今回の小田急線刺傷事件の様な事件だろうが)被害者となる事件だった場合でも、冤罪が出る可能性が有るのであれば真犯人を逃がしたいと思えるか?」と聞いてみたい。(※2)
おそらく「逃がしたいなんて絶対思えない(又は、それに類した答え)」と答えるのではないだろうか?

私は上記の話を聞いて、迷いなく「国を信じているからこそ、思える(自分や自分に近しい者が犯罪被害者となる事件だった場合でも、冤罪が出る可能性が有るのであれば真犯人を逃がしたいと思える)」という答えになった。

小田急線刺傷事件を「フェミサイド」扱いする事の問題点

小田急線刺傷事件を「フェミサイド」扱いする事の問題点がここにある。
「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜(むこ)を罰するなかれ」を遵守するのであれば、司法で判断の行われていない物については一切断定してはいけない。
「フェミサイド」と断定する事も、「フェミサイド」扱いする事も
「無差別通り魔」と断定する事も、「無差別通り魔」扱いする事も
あってはならない。
しかし、件の胸糞の悪いnote記事を書いたフェミニストは、「フェミサイド」扱いした上で、「フェミサイド」ではないか?と社会に投げかける内容の記事として、件のnoteを書いている。
それは、「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜(むこ)を罰するなかれ」の精神、つまりは日本の刑事司法制度の大前提であり、目指す所である物への逆行と言わざるを得ない。

件の胸糞の悪いnote記事を書いたフェミニスト「1人の冤罪が出るとしても10人の真犯人が捕まる世の中」という、日本の刑事司法制度の逆行する世の中を目指すのならそれでも良いだろう。

だが、件の胸糞の悪いnote記事を書いたフェミニスト「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜(むこ)を罰するなかれ」の世の中(自分が被害者となっても犯人を逃したいと思う世の中)を望むなら、小田急線刺傷事件を「フェミサイド」扱いした例の記事は速やかに撤回するべきである。

胸糞の悪いnote記事を書いたフェミニスト

唯一重傷を負った被害者が女性、それも若い女性のAさんであったということは偶然ではなく、単に「無差別殺人」と捉える見方に私は反対です
(「小田急線での刺傷事件とフェミサイドについて思うこととやるべきこと」より)

貴方個人が「小田急刺傷事件は「フェミサイド」ではないか?」と思う事は思想信条の自由の範囲なので別に良い話です。

ですが「小田急刺傷事件は「フェミサイド」ではないか?」と記事にし、読者に投げかけた以上、その考え方は「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜(むこ)を罰するなかれ」の精神に反しているよね、と私は貴方に対して指摘します。

最後に、貴方に二つ、質問を投げておきます。

質問.1(※1)
貴方は、「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜(むこ)を罰するなかれ」という言葉や、日本の刑事司法制度がそれを目指す制度であるという話を今までに聞いた事は有りましたか?
(私は、少し前に知りました。)

質問.2(※2)
貴方は、「自分や自分に近しい者が犯罪(痴漢だろうが、今回の小田急線刺傷事件の様な事件だろうが)被害者となる事件だった場合でも、冤罪が出る可能性が有るのであれば真犯人を逃がしたいと思えます」か?
(私は、それが日本の刑事司法制度が目指す所なのであれば、”日本を信用しているので”、「逃がしたいと思えます」)

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